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訴訟名称 アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求事件
提訴 1991年12月6日(原告35人)追加1992年4月13日
原告 当初35人 追加6人
裁判所 東京地方裁判所 (民事17部)

訴訟原告代理人・弁護士
高木健一 幣原廣 林和男 山本宜成 古田典子 渡邊智子 福島瑞穂 小沢弘子 渡邊彰悟 森川真好 梁文洙

 

3.原告の経歴(事実)

   
 @犠牲者名A犠牲者生年月日B出身地
 C所属部隊D軍人・軍属所属期間E戦地F生死・負傷の状況*備考 
 ●被告国の認否・反論
 
 

1 朴七封(パク・チルボン)
@本人A1924年7月12日B全羅南道高興郡高興面C1941年関東軍補充馬廠軍属・1944年台湾第71師団(徴兵第1期)D1941年11月〜45年9月8日E中国吉林省白城子、台湾F45年7月頃マラリアに罹患、半身不随に*未払給与300円(現在に換算すると239万1900円)
●生年月日はみとめる。同人の所属は陸軍歩兵第140連隊(昭和19年10月9日時点)。階級は陸軍上等兵(昭和20年8月20日時点)、昭和20年11月10日除隊。その余は不知。

2 金載鳳(キム・チェボン)
@本人A1924年1月2日B京畿道平澤郡梧城面C1944年徴兵第1期(高射第1師団・世田谷高射砲中隊)D1944年3月21日〜E東京世田谷F'44年11月24日B29による空襲で右膝部、右下腿部被弾。砲弾破片残存し、歩行時疼痛*
●不知

3 金恵淑(キム・ヘスク 犠牲者の妻)
@権奇泰A1924年8月19日B慶尚北道青松郡青松面C1944年徴兵第1期・陸軍歩兵第224部隊、児玉部隊D1945年3月24日〜E広島かF45年8月6日原爆を被爆か*公的には生死不明。戸籍整理上本籍地で死亡したとの取扱。
●不知

4 金泰仙(キム・テソン 犠牲者の長女)
@金炳国A1924年10月13日B慶尚北道善山郡高井面槐坪洞C1944年徴兵第1期・中支派遣呂武3659部隊広部隊大谷隊、敗戦時第84混成旅団D1944年9月〜E中支那F45年9月18日戦病死*他の相続人(母、兄弟等)の確認。未払給与595円(462万4935円)
●父金炳国の生年月日はみとめる。同人の所属は陸軍歩兵第517大隊(昭和20年4月20日当時)、階級は陸軍上等兵。その余は不知。

5 趙鍾萬(チョ・チョンマン)
@本人A1922年1月25日B忠清南道唐津郡牛江面C1941年海軍作業愛国団員、45年徴兵第2期D1941年9月20日徴用〜43年7月、45年5月徴兵〜Eトラック島F左下腿部貫通創など*
●生年月日は大正11年11月16日。昭和16年9月25日時点で、海軍軍属(工員)としてトラック島で第4海軍建築部に所属していたことは認めるが、その余は不知。

6 ペ在鳳(ペ・チェボン)
@本人A1924年2月1日B慶尚北道英陽郡首比面C1942年8月特別志願兵訓練所、44年6月第49師団D1942年11月20日特別志願兵、44年6月徴兵EビルマF右手第2指用廃*
●生年月日は認める。同人の所属は陸軍歩兵第106連隊(昭和19年6月10日時点)、階級は陸軍一等兵(昭和19年3月20日時点)。昭和21年4月7日現地復員。その余は不知。

7 金判永(キム・パニョン)
@本人A1923年2月11日B全羅北道長水郡蟠岩面C1940年4月特別志願兵訓練所、42年南方軍ビルマ派遣軍自動車第61中隊D1940年4月15日志願兵訓練所EビルマF43年上顎、下顎部、門歯2本喪失、難視、難聴*
●生年月日は認める。同人の所属は陸軍独立自動車第61大隊(昭和18年2月16日時点)、階級は陸軍上等兵(昭和20年6月1日時点)。昭和21年4月7日現地復員、その余は不知。

8 丁起夏(チョン・キハ 犠牲者の長男)
@丁来鳳A1921年10月25日B全羅南道谷城郡谷城面C1940年陸軍特別志願兵、42年ビルマ派遣軍第106連隊D1940年3月特別志願兵訓練所、42年49師団EビルマF45年4月6日戦死*未払給与580円(450万8340円)
●父の丁来鳳の生年月日、昭和20年4月6日ビルマで戦死したことは認める。所属は陸軍歩兵第106連隊(昭和19年6月19日時点)、階級は陸軍伍長(昭和20年4月6日時点)。その余は不知。

9 李良順(イ・ヤンスン 犠牲者の妻)
@羅永基A1918年8月17日B全羅南道長城郡森西面石馬里C1942年11月陸軍特別志願兵、第20師団第1野戦病院D1942年11月特別師団訓練所E東部ニューギニア、ラウラF45年5月30日戦死*未払給与766円(595万4118円)
●原告が羅永基の妻であること、その所属が陸軍歩兵第20師団第1野戦病院で、階級は陸軍兵長(昭和19年5月30日時点)、昭和19年5月30日戦死したことは認める。その余は不知。

10 鄭キ永(チョン・キヨン)
@本人A1920年1月21日B慶尚南道晋州府C1943年11月陸軍特別志願兵(学徒兵)、陸軍歩兵第80連隊補充隊、中支派遣矛(第60師団)第2317部隊(独立歩兵第46大隊)D1944年1月20日入営、44年1月28日第60師団E中国・蘇州、太湖、杭州、上海F*未払給与475円(369万2175円)
●陸軍歩兵第608大隊に所属し(昭和20年6月20に時点)、階級が陸軍少尉(昭和20年8月20日時点)であったことは認める。その余は不知。

11 鄭淑姐(チョン・スクチョ 犠牲者の妻)
@韓聖洙A1920年8月18日B平安北道新義州府楽清洞C1943年11月陸軍特別志願兵、平壌第50部隊、徐州専(第65師団)第7991部隊D1944年1月20日入営、2月26日第65師団、3月26日逃亡E徐州F45年5月13日南京陸軍刑務所で斬首刑*
●夫韓聖洙が昭和19年5月10日、登第7330部隊臨時軍法会議上海法廷で死刑判決をうけたことは認める。同人が第13軍司令部に所属し、階級は陸軍上等兵であったことがある。その余は不知。

12 朴炳贊(パク・ピョンチャン)
@本人A1923年11月17日B忠清北道忠州郡周徳面C1942年6月陸軍軍属(俘虜監視員)、ジャワ俘虜収容所本所総分遣所D1942年6月3日頃俘虜監視員として徴用、44年8月ジャカルタへ。戦後戦犯にされクルドク刑務所に収監される。49年11月強制労働2年の判決をうけるが、50年2月巣鴨刑務所移監され、10数日後に釈放されるEインドネシアF*
●陸軍軍属(傭人)となり(昭和17年8月19日時点)、昭和17年8月にジャワ俘虜収容所に配置されたこと、戦犯裁判で2年の判決を受け、昭和25年1月23日に巣鴨プリズンに入所し、同年2月13日に満刑釈放されたことは認める。その余は不知。

13 李永桓(イ・ヨンハン)
@本人A1912年5月20日B全羅南道光陽郡津月面C1943年8月船舶司令部所属、暁第2940船舶輸送船力行丸D1943年8月陸軍徴用、44年10月11日台湾沖で空爆で沈没、負傷。救助され、野戦病院出手術後、東京第3陸軍病院へ転医。45年8月20日頃帰国E台湾沖F44年10月11日爆撃により負傷、右前腕主間接下切断*
●生年月日は明治45年5月25日。昭和19年6月7日時点で陸軍軍属(船員)として船舶司令部の所属したこと、昭和19年10月12日空襲により右前膊開放性挫滅粉砕骨折の傷害をうけたことは認める。その余は不知。

14 金鍾大(キム・チョンデ  犠牲者の長男)
@金判龍A1912年12月26日B全羅北道任実郡只沙面済洞里C1941年8月第4海軍施設部D1941年8月31日海軍徴用。44年8月8日帰国途中の広順丸、空爆で沈没EパラオF44年8月8日空爆で戦死*
●父金判龍の生年月日、第4海軍施設部に海軍軍属(工員)として所属し(昭和16年11月1日時点)、昭和19年8月8日南洋群島で戦死したことは認める。その余は不知。

15 安相浩(アン・サンホ   犠牲者の長男)
@安永 A1921年3月5日B慶尚南道挟川郡草渓面C1943年海軍軍属、西日本汽船・加智山丸D1943年EF43年9月19日本邦南方海面で戦死*
 ●父安永 の生年月日、海軍軍属(昭和18年5月31日時点)として、加智山丸船員となり、同年9月19日本邦南方海面で戦死したことは認める。その余は不知。
 

16 崔金順(チェ・クムスン   犠牲者の妻)
@姜大赫A1918年9月27日B全羅北道高敞郡星松面C1942年7月芝浦海軍施設補給部D1942年7月頃徴用。横須賀海軍人事部長より、45年2月8日付で、43年1月、ニューギニアで戦死との通知E東部ニューギニアF1943年1月22日戦死*
●夫姜大赫の生年月日、海軍軍属(工員、昭和17年7月23日時点)として昭和18年1月22日戦死したことは認める。所属は第15設営隊であった。その余は不知。

17 申成雨(シン・ソンウ)
@本人A1920年5月9日B全羅北道淳昌郡赤城面C1941年12月佐世保海軍施設部、昭南島第101海軍施設部D1941年12月8日徴用、46年4月20日頃帰国EシンガポールF*未払給与証書あり。125円(97万1625円)
 ●生年月日、第101海軍施設部所属の海軍軍属(工員、昭和17年1月15日時点)であったことは認める。その余は不知。

18 趙武雄(チョ・ムウン 犠牲者の子)
@趙殷鐸A1925年4月2日B全羅北道赤城面C1941年12月佐世保海軍建築部、第225設営隊D1941年12月8日徴用、45年9月マラリアで病死Eフィリピン、ダバオF45年9月23日マラリアに罹患、死亡*
 ●父趙殷鐸の生年月日、第225設営隊に海軍軍属(工員、昭和17年1月15日時点)として所属し、昭和25年9月23日ダバオで戦死したことは認める。その余は不知。

19 李種鎮(イ・チョンジン    犠牲者の子)
@李明永A1918年1月21日B江原道横城郡隅川面C1941年11月海軍軍属・第103施設班D1941年11月30日徴用、45年6月戦死Eフィリピン、マニラ山中F'45年6月20日(30日?)戦死*
 ●父李明永(創氏名徳永明永)が、昭和17年1月18日時点海軍軍属(工員)として勤務していたこと、昭和20年6月30日マニラ東方山中で戦死したことは認める。その余は不知。

20 金堯攝(キム・ヨソプ)
@本人A1923年10月15日B慶尚南道梁山郡機張郡張面C1941年10月奥村部隊・第8施設部D1941年10月頃徴用令書により徴用、46年3月頃帰国EラバウルF45年8月5日空爆により左腕を肩先から切断*
●芝浦海軍施設補給部所属の海軍軍属(工員、昭和17年11月25日時点)であったことは認める。その余は不知。

21 文炳煥(ムン・ピョンファン)
@本人A1916年10月9日B全羅南道長興郡長平面C1943年2月第4海軍施設部D1943年2月頃徴用。45年春投降、ハワイ捕虜収容所に収容されたのち、46年6月帰国Eミレ島F43年10月頃建設作業中製材鋸にひきこまれ、両手指負傷*
 ●芝浦海軍施設補給部所属の海軍軍属(工員、昭和17年3月23日時点)であったことは認める。その余は不知。

22 朴鍾元(パク・チョンウォン)
@本人A1923年6月30日B全羅南道光山郡河南面C1942年2月第4海軍施設部D1942年2月頃徴用。45年ハワイ捕虜収容所に収容された後、46年1月頃帰国Eミレ島F43年春  空爆により鼓膜損傷*
●生年月日、芝浦海軍施設補給部所属の海軍軍属(工員、昭和17年3月23日時点)であったことは認める。その余は不知。

23 高允錫(コ・ユンソク 犠牲者の子)
@高在龍A1928年11月15日B全羅南道光山郡大村面C1942年第4海軍施設部D1942年2月徴用。45年2月28日頃自爆Eミレ島、チェルボン島F45年2月28日頃自爆。戸籍上は45年3月5日本籍地で死亡したものとして整理*
●父高在龍の生年月日、芝浦海軍施設補給部所属の海軍軍属(工員、昭和17年3月23日 時点)であったことは認める。その余は不知。

24 李潤宰(イ・ユンジェ)
@本人A1921年2月28日B全羅北道金提郡聖徳面C1942年9月第4海軍施設部D1942年11月頃徴用。44年初めハワイ捕虜収容所に収容され、46年1月頃帰国Eエンチャビ島F*
●生年月日、芝浦海軍施設補給部所属の海軍軍属(工員、昭和17年11月22日時点)であったことは認める。その余は不知。

25 韓文洙(ハン・ムンス 犠牲者の子)
@韓斗錫A1915年7月7日B全羅南道求礼郡馬山面C1942年12月第4海軍施設部D1942年  12月頃徴用。44年2月頃空爆をうけるEブラウン島F44年2月24日戦死*
●父韓斗錫の生年月日、第4海軍施設部所属の海軍軍属(工員、昭和17年11月22日時点)であったこと、昭和19年2月24日ブラウン島で戦死したことは認める。その余は不知。

26 金容キ(キム・ヨンギ 犠牲者の弟)
@金容キA1921年7月25日B全羅北道井邑郡笠岩面C1943年11月第4海軍施設部D1943 年11月25日頃徴用Eブラウン島F44年1月31日頃死亡。ただし戦死公報はなく、撲殺された疑いがある*
●兄金容 の生年月日、第4海軍施設部所属の海軍軍属(工員、昭和17年11月22日時点)であったこと、昭和19年2月24日ブラウン島で戦死したことは認める。その余は不知。

27 朴壬善(パク・イムソン   犠牲者の子)
@朴載甲A1908年11月15日B忠清南道青陽郡雲谷面C1942年8月第4海軍施設部D1941 年8月頃徴用。44年12月戦病死Eナウル島F44年12月11日頃戦病死*
●父朴載甲の生年月日、第4海軍施設部所属の海軍軍属(工員、昭和17年8月26日時点)であったこと、昭和19年12月11日ナウル島で戦死したことは認める。その余は不知。

28 呉壬順(オ・イムスン 犠牲者の妹)
@呉庚煥A1922年5月5日B京城府中区C1943年10月海軍軍属(第212設営隊)D1943年10月14日頃徴用。同年12月19日、会東丸でラバウルに向かっていたところ空爆をうけ、沈没戦死EラバウルF43年12月19日戦死*学生時代からプロのボクサーだった。
●兄呉庚煥の生年月日、呉海軍施設部第213設営隊所属の海軍軍属(工員、昭和18年10月15日時点)であったこと、昭和18年12月19日ビスマルク諸島で戦死したことは認める。その余は不知。

29 成興植(ソン・フンシク)
@本人A1927年1月20日B全羅北道南原郡徳果面C1943年5月関東軍第1野戦補充馬廠、満州第59部隊D1943年4月頃徴用。満州へE満州F43年上官の暴行で歯欠損。同年12月訓練中の落馬により脳損傷の障害*後遺症あり。未払給与300円(233万1900円)
●生年月日、第1野戦病院補充馬廠に陸軍軍属(傭人、昭和18年6月14日時点)として所属していたことは認める。その余は不知。

30 姜仁昌(カン・インチャン)
@本人A1920年12月9日B慶尚北道英陽郡首比面C1944年5月特設水上勤務第103中隊D1944年5月18日頃徴用され入隊。46年3月沖縄捕虜収容所を釈放され帰国E沖縄F*
●生年月日、特設水上勤務第103中隊に陸軍軍属(軍夫、昭和19年7月10日時点)として所属していたことは認める。その余は不知。

31 徐正福(ソ・チョンボク)
@本人A1920年4月15日B慶尚南道達城郡嘉昌面C1944年6月特設水上勤務第101中隊D1944年6月頃徴用令書で徴用され入隊。45年10月頃沖縄捕虜収容所に収容される。46年3月釈放され帰国E沖縄F*
●生年月日、特設水上勤務第101中隊に陸軍軍属(傭人、昭和19年7月10日時点)として所属していたことは認める。その余は不知。

32 韓永龍(ハン・ヨンニョン 犠牲者の長男)
@韓錫煕A1916年12月1日B慶尚南道居昌郡馬利面C1945年5月大湊海軍施設部D1945年5月8日徴用令書により徴用され入隊E青森県大湊F45年8月24日福井県敦賀沖で、乗船していた浮島丸が爆発、沈没し死亡*
●父韓錫煕の生年月日、大湊海軍施設部所属の海軍軍属(工員)であったこと、昭和20年8月15日解員されたことは認める。その余は不知。

33 A(軍隊慰安婦)
@本人A1927年3月15日B浦項郡CD1942年春〜46年4月E1942年ラバウルF*
●不知

34 B(軍隊慰安婦)
@本人A1922年ころB全羅北道益山郡CD1940年夏〜45年8月E1940年夏上海F*
●不知

35 金学順(キム・ハクスン   軍隊慰安婦)
@本人A1923年B中国・吉林省C北支那方面軍D1939年〜脱走。46年夏帰国E1939年陝西省F*
●不知

36 李貴分(イ・キプン 軍隊慰安婦)
@本人A1927年(戸籍29年)B慶尚北道永川C海軍D1943年秋〜45年8月。台湾を放浪ののち帰国E1943年台湾高雄F*
●不知

37 盧清子(ノ・チョンジャ   軍隊慰安婦)
@本人A1922年2月16日B忠清南道CD1938年〜40年3月脱出。47年帰国E1938年8月陝西省五台山F*
●不知

38 文玉珠(ムン・オクチュ  軍隊慰安婦)
@本人A1924年4月3日B慶尚北道大邱Cビルマ方面軍D1942年7月〜45年11月帰国E1942年ビルマF*
●野戦郵便局に貯金をしていたことは認めるが、その余は不知

39 金田きみ子(軍隊慰安婦)
@本人A1921年10月22日B慶尚北道C石家荘の部隊D1938年春〜44年、部隊を離れるE1938年春棗強F*
●不知

40 沈美子(シム・ミジャ 軍隊慰安婦)
@本人A1924年2月4日B黄海道C不明D1940年3月〜45年8月15日大阪で敗戦E1942年F*
●不知

41 C(軍隊慰安婦)
 @本人A1926年2月20日B全羅道道康津郡C第49師団D1944年夏〜45年9月帰国E1944年ビルマF*
●不知
 
 


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