不失者 --前景01/vol.2


 まず最初に思ったのは、これ以上近付くべきかどうかということだった。
考えてみれば六七になるこの歳まで、特に危ない目にも奇妙な事態にも遭わずにきたのである。平凡な生涯を送り、あとわずかの残る 生涯とてずっと平凡だと信じてきた人間である私にとって、行動を起こしてしまったものの、まだ引き返せるというなら初めて感じた危険のようなものを回避しようとして何が責められるというのだろう。私は伸ばした手を引っ込め、後退りしようとした。わざわざ声を掛けておいて、しかも相手が正常な状態ではないのを知りながら見捨てるのも気が引けたが、何も見なかったし何もなかったということに今回はしておこうとしたのである。どのみち、私が声を掛けなかったとしても、もう少しして人通りが多くなってくれば、いかに情の薄い都心の人間としても、誰か一人は声を掛ける者がいるだろう。私はその誰かに役目を譲るに過ぎない。
 そう考えて足を後方に運ぼうとしたその瞬間、離れようとしたそれが小さく身を動かした。私の情けない意図が向こうに漏れたのかと思い、私はぎくりと身を強張らせた。そんなことで身体を強張らせる自分が悪いわけではないだろうと叱咤しつつも正直で惨めになる。それでも尚、もう外聞もなく走って逃げようかと思ったりもしたが、動き出したそれは、ゆっくりと、――その美しいと思った銀の頭を祈りのような優雅さで擡げたときに諦めた。いいや、正直に言おう、私はその異様な出で立ち(状態といった方がいいのか)に怯えながらも、再びその生き物に対しての好奇心が沸いてきたのである。

 生き物。
 それは明らかに人間で、幼い少年であり、そう、まさに自分の孫くらいの年の人間であるとわかっているものの、私はどうしてもそこで異様な状態で蹲っている美しい存在を『生き物』と呼びたくて仕方なかった。そんなペットのように、と私は自分のその少年への認識に対する倫理を責めたが、一度そう思ってしまったものはどう言うわけか覆せず、私は、――そう、その動き出した『生き物』をじっと見つめた。
 ゆっくりと、非現実的とも思えるような動きで顔を上げたその『生き物』は、――――ああ、なんと言ったらいいのだろう、私の貧相な語彙であれをどう表わしたらいいのか、私にはまったくわからない、――大層、―――大層、美しかった。


 その子は薄汚れていた。傍目からでもはっきりと判るくらいだった。
 身体といい、そして上向けた顔といい、明らかに汚れと思われる汚らしい色――ところどころに泥がそのままこびりついたような黒い部分もあった――が付着していて、裸同然のままそこいらを無茶苦茶に転げまわったりしたとしか思えない有様だった。――だが、美しかった――私を遠くからでも感嘆させたその乳白色の肌は、スモッグの中の微量の光の粒子すら律儀に跳ね返しているような輝きで、明らかに黒い泥の汚れを表面のそこかしこに纏わりつかせながらも、その合間から見え隠れする部分が、その汚れをも覆い隠すように輝いていた。
 確かに、この年くらいの子供というのは、生命力に溢れて肌の隅々まで輝くようなものだが――だが、この子供は明らかに違った。そういった輝き方とはまったく質の違う輝き方で、まるで光源であり、かつすべての光を反射しつくして最大限に光り輝くような、本当の輝き方をしていた。そう、この子は、比喩ではない、本当に輝いていたのだ。
 私は驚いた。早朝で、気が動転しているので、錯覚を起こしているのかと思ったがそうではなかった。何度目を凝らして確かめてみても、この薄ぐらいグレイの中で、そのミルク色の肌は――微量な光を放ち跳ね返しながら確かに光り輝いていたのである。

 その子は、ゆっくりと、顔を上げたような速度で、その瞳を開いた。その柔らかな銀髪と同じ輝きを持つ薄い銀色の睫毛がゆっくりはためいて持ちあがり、それで私は彼の睫毛もまた非常に美しいものであることに初めて気づいた。軽やかな色の長い睫毛が持ちあがりきると、ああ――またしても、なんと表現したらいいのだろう?北欧の湖の色のような、などと表現してしまったりしては、陳腐もいいところだろうか?私はこんな色の瞳というものが、本当にあるとは思ったことがなかった、限りなく水色で、そして少しも翳りのない水色の瞳だなんて本当にあっていいものだろうか?だが、現に目の前にあるのが幻ではないとしたら、それは本当なのだ。予想もつかない美しい色だった。

 私は―――、信じられないことだと思いながらも、だが、確信した―――私は今、私が今見ているのは、美しいという言葉以外を表現に持たない、信じ難いくらい美しい、稀有の存在であり、――私はそんな存在とたった今、対峙しているのだということを。
 



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