←前のページ トップページ↑ 次へ→

北広島町

有田城


2009年08月12日

有田城跡と有田合戦
有田城跡山頂には4つの郭(人工的な平坦面)と、郭の北西端を固める土塁(人口的な土手)が残っている。城主は山県一族有田氏と思われ、東の壬生氏、西の今田氏とともに、室町から戦国時代初期にかけてこの地域を支配していた。1515(永正12)年、中国地方に大きな勢力を持っていた山口の大内氏に対し、銀山城の武田元繁が反旗をひるがえし、壬生氏・有田氏・今田氏も従軍した。これに対し、大内氏の命を受けた郡山城(高田郡吉田町)の毛利氏によって有田城は攻撃され、落城した。
1516〜1517年に有田城奪回を目指す武田氏と毛利・吉川氏の間で有田合戦が繰り広げられたが、武田元繁は戦死、山県一族の壬生・有田・今田氏も没落した。元繁戦死の地の碑は現在、又打川河畔にあるが、今田、中井出など異説があり確定できない。
この有田合戦は、武田氏の威勢を失墜させることとなり、逆に毛利氏は安芸国人の中に占める地位を固め、初陣を飾った元就自身も毛利家家督相続の足場を築くこととなった。
(看板資料より)

永正14(1517)年安芸守護職銀山城武田元繁は熊谷元直・己斐師道・香川行景等諸将を与力とし5千の大軍を擁して、小田信忠の居城、有田城を包囲したが、これを黙視し
得なかった猿掛城(高田郡吉田町)の毛利元就は2千の劣勢で朝霧をついて有田の地に又打川を挟んで武田勢と対戦。かくて有田合戦が繰り広げられたのである。合戦は中出に出陣した熊谷元直の戦死に続いて又打川に武田元繁死し、大将を失った武田勢は形勢逆転、翌朝太郎丸に出撃した己斐師道も亦討死して、武田勢は毛利勢の前に壊滅。毛利元就は21歳の初陣ながらも、この一戦によって一介の地方豪族から、やがて中国制覇のきっかけを掴んだのである。有田城はいつの時代の築城か明らかではないが、陰徳太平記は小田氏歴代の居城と記し夙にこの城は大内、尼子両勢力の消長に関する重要拠点とされ、一時は高橋氏(島根県)に略取され吉川氏によって復帰したのであるが、ついに武田・毛利の合戦によって命運を決したのである。標高377米のこの城跡は、郷土人には茗荷丸の名称で親しまれ城郭跡からは兵火に焼けた兵糧米が発掘され、落城当時の情景が追想される。この山城の背面防備として中城・後城・狐城の支城配置の跡があり山麓にかけては城主の菩提寺普大寺、居館の土居などの地名が残っていて中世山城の姿を物語っておりこの築城に汗を流した城下の人々のことも偲ばれる。昨今古城址に立ては眼下に展開する千代田盆地の中に、又打川の流れを挟んで有田合戦の古戦場が望見される。鳥兎匆々490年、戦国時代の拠点となったこの地に、今や中国縦横断自動車道が開通し、新たな時代の脚光を浴びようとしている。歴史は語る「陰陽交通の要所」と。
(看板資料より)


焼け米が出るところ

落城のとき兵火に焼けた兵糧米が出る。


有田八幡神社

往古は岩崎弥間に鎮座したが茗荷丸落城後に現地に移転すると伝える。天文21(1552)年11月。社殿を造営するその時は吉川元春の当荘代官朝枝加賀守経家従事奉行森若狭守と記されている。
(看板資料より)


駐車場が整備されていて説明板もありました。登山道が2箇所あったのですが奥の方の登山道から登って行きました。途中までは舗装された道路でしたが途中から山道になりました。蜘蛛の巣も沢山あったので木の枝を拾って払いながら登りました。15分程で見晴らしの良い所に出ました。山の麓を見渡すことができ中国自動車道を走る車の走行音が印象的でした。

 

 
←前のページ トップページ↑ 次へ→