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愛知県新城市

馬防柵

2013年07月07日

設楽原決戦場祭りの当日、馬防柵周辺では地元の小学生や鉄砲隊などによる長篠・設楽原合戦の演舞が行われました。各方面から織田軍、徳川軍、武田軍に扮した小学生や中学生が集まり、鉄砲隊や馬に乗った子供たちも集結。子供たちは自分たちで作った甲冑や鎧を身に着けていました。
織田・徳川連合軍が馬防柵を構築した後、織田信長役と武田勝頼役の子供が声高に叫びあい、その後武田軍による馬防柵への突撃が行われました。しかし鉄砲隊により悉く討死。
その後突如として武田軍に扮した子供が本物の馬防柵に取り掛かり声高に叫びました。横で見ていた私は感動してしまいました。しかしやがて槍や鉄砲隊に討ち取られてしまいました。
そして武田勝頼は退却を決意したのでした。



2013年07月06日

設楽原をまもる会は昭和55年、地元の人々が中心になって発足した。翌年、まもる会の第一期事業として、馬防柵の一部が構築された。柵は「長篠合戦屏風」「永禄墨俣記(前田家文書)」の馬止め柵などを参考にして再現した。柵に織田軍様式と徳川軍様式の虎口(出入り口)の設け方の違いを区分して構築した。
織田信長は岐阜を出発する時に、一人一人に目通り一尺(30センチ)の柵木と縄一把を持たせた。天正3(1575)年5月18日、本陣とした極楽寺に到着すると、直ちに連吾川の前の弾正山東裾に、二重、三重の乾堀を掘って土居を築き、連吾から浜田まで20町(約2Km)に渡り虎口を設け、柵を構築した。
信長は、武田軍の長篠城包囲軍を設楽原におびき出して、武田騎馬軍団と野戦を試みるために、長篠城から4Km手前に構築を考えた。更に背後の弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、一重の柵を設けて万一に備えた。
戦いが始まると、『原本信長記』に「信長自身が下知して鉄砲三千挺ばかりを佐々成政らに奉行させて、足軽に敵を攻撃させた」とある。鉄砲の丁数は、原典『信長公記』には「鉄砲千挺計り」とあるが、それに三が加筆されて三千となり、それ以降の『信長公記』(写本)は「鉄砲三千挺計り」と書き継がれて、今日に至っている。また通説の「鉄砲三段撃ち」の説明は、諸書に見当たらない。柵を楯にして次々に撃ち続けるということから、連続三段撃ちが考えられて、「鉄砲三段撃ち」の言葉が創造されたものと思われる。
信長直接指揮下にあったと思われる臨時編成の鉄砲隊に、佐々蔵介・前田又左衛門・福富平左衛門・野々村三十郎・塙九郎左衛門が臨時の部隊長に任命された。
弾正山の中央から南を徳川軍、北を織田軍が布陣した。中央隊には織田軍の滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀らが布陣したと想定される。
(東三河の史跡めぐりより)

2013年の設楽原決戦場祭りに参加すべく、前日に新城に入りました。長篠城、馬場信房公の墓を参拝した後、設楽原歴史資料館に寄り、馬防柵に来ました。
馬防柵は翌日の決戦場祭りの会場となるため、既に旗が立てられたり、縄が張られたりして準備が終っていました。

 



2006年05月05日

馬防柵は柳田前激戦地から更に西に進むと向って右側に見えてきます。そこに向って入って行ける道があるので車で行くことができます。馬防柵は三段に渡って構築されていたとのことですが再現されているのは一段のみです。かるたでつづる設楽原古戦場によれば、馬防柵構築奉仕作業により、昭和56年に第一期構築として織田陣、続いて昭和58年に第二期構築として徳川陣の馬防柵の再現を実施したとのことでした。
馬防柵は設楽原合戦の象徴的な史跡であり是非寄りたいところだと思います。織田信長は多量の柵木が現地で準備できないかもしれないと思いわざわざ岐阜から多くの柵木を運んできたとのことですが、ずいぶん前から武田勝頼対策の作戦を考えていたのですね。

 



2003年10月12日

天正3(1575)年「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、延長2粁(キロメートル)に及んでいた。決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後のの弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである。
(看板資料より)


「えんえんと柵木岐阜よりかつぎくる」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

名和式「鉄砲構え」
天正3(1575)年新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、武田勝頼軍との設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」乾掘と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。古文献と時代考証による復原である。
(看板資料より)

設楽原歴史資料館から連吾川を渡って柳田前激戦地を通過してすぐに右に入る道があり、案内看板もあるのですぐに分かると思います。上の馬防柵の写真は柵の外側から撮ったものですが、内側から武田軍の陣地を見ると天王山の内藤昌豊の陣地付近を見ることができ、思ったより近くて驚きました。両軍の陣地はかなり接近していたようです。たとえ鉄砲を持って柵に守られていたとしても、戦国最強武田軍団を目の前にしてその恐怖心は物凄かったような気がします。逆に武田軍はなぜ柵に向かって無謀な突進を繰り返したのでしょうか?

 


1999年11月23日

織田・徳川連合軍と武田軍は連吾川をはさんでお互いに対峙したが、連合軍側は馬防柵を設置して武田の騎馬隊の突撃を防いだといわれている。その馬防柵が連吾川に復元されていた。織田方と徳川方ではその設置方法が異なっていたらしくその様子が復元されていた。


 
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