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山梨県身延町

大聖寺

2013年12月22日

建物について
当寺の堂塔伽藍は甲斐源氏一統の帰依により巨大かつ荘厳美を極めていたと伝えられているが、時代が下ってからでは慶長3(1598)年と安永5(1776)年に火災で焼失している。現在の建物は安永8(1779)年に先ず庫裏(右手前)を、寛政12(1800)年にこの本堂(護摩堂)を、文政7(1824)年に客殿(右手奥、遍照殿=大師堂)を再建した。庫裏は下山大工の有名な石川久左ェ門が棟梁であったが、本堂も同じかと思われる。
(看板資料より)

武田信玄公 (左)
武田氏の祖は、義光公の曾孫信義であり、加賀美次郎遠光の兄にあたる。信玄公は大聖寺を祈願寺のひとつとして出陣の折にはその戦勝を祈願し直筆の礼状が残されている。戦国乱世に勇名を馳せたことは周知の通りである。
(看板資料より)

新羅三郎義光公 (中央)
義光公は源頼義公を父、八幡太郎義家を兄とし、甲斐源氏の始祖であり、大聖寺の開基である。後三年の役では苦戦している兄八幡太郎義家に京都からかけつけ加勢し、清原氏を一挙に征伐し武勇を高めた。
(看板資料より)

加賀美次郎遠光公 (右)
遠光公は義光公の曾孫にあたり、加賀美氏の始祖である。源頼朝の挙兵に際し、甲斐源氏一族をあげてこれを援助したので、公は源氏六受領の一人に数えられ信濃守に任ぜられた。更に奥州藤原氏討伐の折には北陸道の総大将として出陣し泰衡軍搦手の死命を制している。
(看板資料より)

 



2005年07月03日

本堂(護摩堂)

建物について
当寺の堂塔伽藍は甲斐源氏一統の帰依により巨大かつ荘厳美を極めていたと伝えられているが、時代が下ってからでは慶長3(1598)年と安永5(1776)年に火災で焼失している。現在の建物は安永8(1779)年に先ず庫裏(右手前)を、寛政12(1800)年にこの本堂(護摩堂)を、文政7(1824)年に客殿(右手奥、遍照殿=大師堂)を再建した。庫裏は下山大工の有名な石川久左ェ門が棟梁であったが、本堂も同じかと思われる。
(看板資料より)

庫裏

客殿


国指定重要文化財
木造不動明王坐像

大聖寺は真言宗醍醐派の古寺で、新羅三郎義光の開基と伝えられている。寺伝によると、本尊の不動明王は空海の作で、加賀美次郎遠光が宮中守護の功績によって、承安元(1171)年正月高倉天皇から下賜されたものであるという。
本像は両眼を見開き上歯牙で下唇を噛む等身大の像である。頭、体部は桧の一材から木取りし、細部まで一材から彫成するなど総体に古い様式を踏襲している。
太目の弁髪を垂らし、怒りの表情も穏やかにまとめられている。丸味を帯びた顔、体のふくよかな肉取りには藤原期の典雅な趣があり、平安時代の都ぶりを示す美作として注目される。
元禄・宝永・安永そして昭和と過去4度、江戸に出開帳を行っている。
(看板資料より)

朝早く訪れてしまい、まだ本堂が開かれておらず、無理を言って本堂を開けてもらって中の様子を写真に撮らせてもらいました。


武田信玄公 (左)
武田氏の祖は、義光公の曾孫信義であり、加賀美次郎遠光の兄にあたる。信玄公は大聖寺を祈願寺のひとつとして出陣の折にはその戦勝を祈願し直筆の礼状が残されている。戦国乱世に勇名を馳せたことは周知の通りである。
(看板資料より)

新羅三郎義光公 (中央)
義光公は源頼義公を父、八幡太郎義家を兄とし、甲斐源氏の始祖であり、大聖寺の開基である。後三年の役では苦戦している兄八幡太郎義家に京都からかけつけ加勢し、清原氏を一挙に征伐し武勇を高めた。
(看板資料より)

加賀美次郎遠光公 (右)
遠光公は義光公の曾孫にあたり、加賀美氏の始祖である。源頼朝の挙兵に際し、甲斐源氏一族をあげてこれを援助したので、公は源氏六受領の一人に数えられ信濃守に任ぜられた。更に奥州藤原氏討伐の折には北陸道の総大将として出陣し泰衡軍搦手の死命を制している。
(看板資料より)


三社天神宮(義光公墓所)

もと新羅三郎義光の墓所であったが、墓碑もこわれたので文化3(1806)年にその礎を用いてほこらを建て、次のように三将をあがめ合祀した。
新羅義光公(天満天神宮)
加賀美遠光公(加賀美大明神)
武田信玄公(青龍大権現)


信玄公手植の紅梅

 
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