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山梨県山梨市

永昌院

2013年09月21日

本堂

境内案内図

永昌院は、寺記によると、武田信昌が開基し、永正元(1504)年に開創されたと伝えられています。『永昌院旧記』によると前身は不動明王を安置した密教系宗寺院であったとされています。開山の一華文営は、光厳院(笛吹市一宮町)開山雲岫宗龍の高弟で、永正3(1506)年に後柏原天皇により「神嶽通龍」の禅師号と紫衣を賜っています。創建以降も武田氏の外護を受け、江戸時代になっても寺領が安堵されました。その後柳沢家の外護によって諸堂が修復、建立されましたが、明治42年の火災によって総門、鐘楼、経蔵をのぞく建物を消失し、その後再建されています。境内には信昌の墓があるほか、中世資料として名高い『菊隠録』や日本最古級の五人組帳など貴重な資料が遺されています。また県指定文化財の銅鐘、絹本著色神嶽通龍禅師画像など、市内でも屈指の文化財の宝庫となっています。
山号:龍石山
本末:笛吹市光厳院末
本尊:釈迦如来
(看板資料より)

県指定有形文化財
絹本著色神嶽通龍禅師画像
禅宗では師僧の肖像を頂相と呼んで尊敬していました。本像図は永昌院開山禅師の頂相で、上部に賛文が記されています。それによると、禅師の肖像は、永正元年に2世菊隠瑞潭によって一度描かれたものの、禅師の没後あらためて新写され、禅師の著賛の書写に菊隠の自叙を加えて永正11(1514)年に完成したを考えられます。本像図は、室町時代中期における本県曹洞宗頂相画の傾向を理解するうえで、また永昌院の草創期を明らかにし得る資料として極めて貴重なものです。
(看板資料より)

永昌院経蔵
永昌院保存の黄檗版一切経を所蔵するため、寛政3(1791)年に建立された土蔵造の建造物です。内部には唐様の回転式書架(輪蔵)が設置され、1,344冊の一切経が収納されています。明治時代の本院火災の際にも厚い壁のため、類焼を免れました。内部は建築当時の姿をよく残しています。
(看板資料より)

木造十一面観音菩薩立像
本像は、明治42年の火災の際の損傷を受け修理が加えられているものの、美しい顔をしており、像の頭部と体部の主要部を一材から掘り出す「一木造」で平安時代後期の制作と見られ、市内最古の仏像彫刻として貴重なものです。
永昌院は、開創以来古い密教の道場であったとの伝承もあり、その当時の本尊として作られたものと考えられます。
(看板資料より)

勅使紫衣
永昌院開山一華文営は、英明特に優れ、当時日本三蔵司の一人と称され、永正3年後柏原天皇から神嶽通龍禅師の称号とあわせて紫衣を賜りました。
(看板資料より)

菊隠録
菊院録は、永昌院第2世菊隠瑞潭の永正2(1505)年から大永4(1524)年にいたる間の法語集で、甲斐の中世史を研究するうえで欠くことのできない史料としてその価値が高いものです。
(看板史料より)

黄檗版一切経
この一切経は、別に鉄眼版一切経ともいわれ、江戸時代初期(寛文、延宝年間)鉄眼道光が宇治黄檗山万福寺において中国蔵書をもとに10余年間の歳月をついやし、延宝6(1678)年に完成した日本版の代表的な一切経です。この一切経は経蔵、律蔵、論蔵、支那撰述、印度著集の5部門に分類し出版されています。
現在の保存数は全体で1,344冊、その内訳は経蔵602冊、律蔵145冊、論蔵252冊、支那撰述321冊、印度著集24冊です。
輪蔵は一切経収納のために造られた回転式書架です。石の土台の上に八角形のケヤキ材の輪軸が天井まで達し、その周囲に8個の書庫が付いています。回廊の高欄、内屋根の扇垂木その下の組木には繊細かつ精巧な彫刻がほどこされ全体が多彩に着色されたみごとな唐様の輪蔵です。
なお、輪軸には「寛政3年辛亥稔10月2日建之」と書かれています。
(看板史料より)

永昌院典籍
11点のうち「五灯会元」(五山版)は中国の宋代に禅僧の伝統系譜を収録したもの、「禅林類聚」は五灯会元をはじめ諸祖師の語録を分類したもので、ともに南北朝時代に輸入して日本で刊行されました。他の9点には室町時代にかけて成立した上記書物の研究書や「正法眼蔵」の写し、永昌院開山からの法語集などがあります。
(看板史料より)

永昌院五人組帳
五人組は、江戸時代の町人・百姓を統制するために設けられた隣保組織です。元和4(1618)年に成立した永昌院五人組帳の条目は3ヶ条からなり、特に犯罪防止に重点をおいていたところに特徴があります。江戸時代のものとして全国的にも最古に属す貴重な資料です。
(看板資料より)

永昌院文書
永昌院文書は、室町時代から安土桃山時代にかけての後奈良天皇勅書、三条西公条頌書、武田晴信判物その他計12点で、勅書は後奈良天皇から四世梧宗鈍嘉に円明禅師の称号を勅謚されたときの文書です。判物は武田晴信が同寺の門前百姓に課せられた棟別銭を免除する文書などです。
(看板資料より)


武田信昌の墓

武田信昌は、文安4(1447)年甲斐の守護職信守の子として生まれ、9歳で家督を相続し、晩年に家督を長子信縄に譲って本市落合に隠居したとされます。永正2(1505)年9月16日59歳で没してここに葬られました。
五輪塔には四門の梵字を各輪にきざみ、最下段の地輪正面に、「前刑部大輔。。。」、裏面に「。。。十六日」と彫られています。供養のための宝篋印塔には、墓礎の正面に「奉為永昌院殿傑山勝公大禅定門神儀立焉永正2年9月16日」とあります。
五輪塔と宝篋印塔を揃えて造る例は16世紀以降甲斐国でも見られるようになりますが、この信昌の両塔はほぼ同時に造立されたと考えられ、石塔の信仰形態の変遷を知る上からも貴重です。
(看板資料より)

宝篋印塔

五輪塔



2006年03月12日

境内案内図

永昌院は、寺記によると、武田信昌が開基し、永正元(1504)年に開創されたと伝えられています。『永昌院旧記』によると前身は不動明王を安置した密教系宗寺院であったとされています。開山の一華文営は、光厳院(笛吹市一宮町)開山雲岫宗龍の高弟で、永正3(1506)年に後柏原天皇により「神嶽通龍」の禅師号と紫衣を賜っています。創建以降も武田氏の外護を受け、江戸時代になっても寺領が安堵されました。その後柳沢家の外護によって諸堂が修復、建立されましたが、明治42年の火災によって総門、鐘楼、経蔵をのぞく建物を消失し、その後再建されています。境内には信昌の墓があるほか、中世資料として名高い『菊隠録』や日本最古級の五人組帳など貴重な資料が遺されています。また県指定文化財の銅鐘、絹本著色神嶽通龍禅師画像など、市内でも屈指の文化財の宝庫となっています。
山号:龍石山
本末:笛吹市光厳院末
本尊:釈迦如来
(看板資料より)

本堂

県指定有形文化財
絹本著色神嶽通龍禅師画像
禅宗では師僧の肖像を頂相と呼んで尊敬していました。本像図は永昌院開山禅師の頂相で、上部に賛文が記されています。それによると、禅師の肖像は、永正元年に2世菊隠瑞潭によって一度描かれたものの、禅師の没後あらためて新写され、禅師の著賛の書写に菊隠の自叙を加えて永正11(1514)年に完成したを考えられます。本像図は、室町時代中期における本県曹洞宗頂相画の傾向を理解するうえで、また永昌院の草創期を明らかにし得る資料として極めて貴重なものです。
(看板資料より)

永昌院経蔵
永昌院保存の黄檗版一切経を所蔵するため、寛政3(1791)年に建立された土蔵造の建造物です。内部には唐様の回転式書架(輪蔵)が設置され、1,344冊の一切経が収納されています。明治時代の本院火災の際にも厚い壁のため、類焼を免れました。内部は建築当時の姿をよく残しています。
(看板資料より)

木造十一面観音菩薩立像
本像は、明治42年の火災の際の損傷を受け修理が加えられているものの、美しい顔をしており、像の頭部と体部の主要部を一材から掘り出す「一木造」で平安時代後期の制作と見られ、市内最古の仏像彫刻として貴重なものです。
永昌院は、開創以来古い密教の道場であったとの伝承もあり、その当時の本尊として作られたものと考えられます。
(看板資料より)

勅使紫衣
永昌院開山一華文営は、英明特に優れ、当時日本三蔵司の一人と称され、永正3年後柏原天皇から神嶽通龍禅師の称号とあわせて紫衣を賜りました。
(看板資料より)

菊隠録
菊院録は、永昌院第2世菊隠瑞潭の永正2(1505)年から大永4(1524)年にいたる間の法語集で、甲斐の中世史を研究するうえで欠くことのできない史料としてその価値が高いものです。
(看板史料より)

黄檗版一切経
この一切経は、別に鉄眼版一切経ともいわれ、江戸時代初期(寛文、延宝年間)鉄眼道光が宇治黄檗山万福寺において中国蔵書をもとに10余年間の歳月をついやし、延宝6(1678)年に完成した日本版の代表的な一切経です。この一切経は経蔵、律蔵、論蔵、支那撰述、印度著集の5部門に分類し出版されています。
現在の保存数は全体で1,344冊、その内訳は経蔵602冊、律蔵145冊、論蔵252冊、支那撰述321冊、印度著集24冊です。
輪蔵は一切経収納のために造られた回転式書架です。石の土台の上に八角形のケヤキ材の輪軸が天井まで達し、その周囲に8個の書庫が付いています。回廊の高欄、内屋根の扇垂木その下の組木には繊細かつ精巧な彫刻がほどこされ全体が多彩に着色されたみごとな唐様の輪蔵です。
なお、輪軸には「寛政3年辛亥稔10月2日建之」と書かれています。
(看板史料より)

永昌院典籍
11点のうち「五灯会元」(五山版)は中国の宋代に禅僧の伝統系譜を収録したもの、「禅林類聚」は五灯会元をはじめ諸祖師の語録を分類したもので、ともに南北朝時代に輸入して日本で刊行されました。他の9点には室町時代にかけて成立した上記書物の研究書や「正法眼蔵」の写し、永昌院開山からの法語集などがあります。
(看板史料より)

永昌院五人組帳
五人組は、江戸時代の町人・百姓を統制するために設けられた隣保組織です。元和4(1618)年に成立した永昌院五人組帳の条目は3ヶ条からなり、特に犯罪防止に重点をおいていたところに特徴があります。江戸時代のものとして全国的にも最古に属す貴重な資料です。
(看板資料より)

永昌院文書
永昌院文書は、室町時代から安土桃山時代にかけての後奈良天皇勅書、三条西公条頌書、武田晴信判物その他計12点で、勅書は後奈良天皇から四世梧宗鈍嘉に円明禅師の称号を勅謚されたときの文書です。判物は武田晴信が同寺の門前百姓に課せられた棟別銭を免除する文書などです。
(看板資料より)

経蔵からの景色

約3年ぶりに永昌院を訪れました。雁坂峠へむかう雁坂みちを甲府から北に向かいしばらく走ってから左のほうへ向って坂をどんどん登っていきます。その道を登りきると目的地である永昌寺にたどり着くことができます。眼下に山梨市の市街地を見渡せるすばらしい景色を見ることができます。前回訪れた後に永昌寺には武田信昌の墓があるという情報を得たため今回はそれを確認するために寄りました。市町村合併で新山梨市になってからなのかどうか分かりませんが、山梨市内の寺や神社には文化財マップや文化財が丁寧に説明されている真新しい看板をよく見かけるようになりました。永昌寺境内の看板も一新されていて何がどこにあるのか分かりやすく解説されていたのでお目当ての武田信昌の墓の場所もすぐに分かりました。墓はお堂のようなところの中にありましたが、ちょうどお墓の掃除をしていた人がいたので了解を得て扉を開けさせてもらって中の様子を撮影させてもらいました。小雨が降りだしていましたが、そこから少し高いところにある経蔵にも寄りました。ここからは境内全体と麓の街並みを見渡すことができ気分爽快になりました。


武田信昌の墓

武田信昌は、文安4(1447)年甲斐の守護職信守の子として生まれ、9歳で家督を相続し、晩年に家督を長子信縄に譲って本市落合に隠居したとされます。永正2(1505)年9月16日59歳で没してここに葬られました。
五輪塔には四門の梵字を各輪にきざみ、最下段の地輪正面に、「前刑部大輔。。。」、裏面に「。。。十六日」と彫られています。供養のための宝篋印塔には、墓礎の正面に「奉為永昌院殿傑山勝公大禅定門神儀立焉永正2年9月16日」とあります。
五輪塔と宝篋印塔を揃えて造る例は16世紀以降甲斐国でも見られるようになりますが、この信昌の両塔はほぼ同時に造立されたと考えられ、石塔の信仰形態の変遷を知る上からも貴重です。
(看板資料より)


銅鐘

この鐘は「流転の名鐘」として知られ、その遍歴は三次にわたる刻銘に記されています。永和3(1377)年に鋳造された鐘は、巨摩郡逸見筋取郷大林寺(北杜市明野町)に納められ、応永27(1420)年には甲府の東光寺へ、更に永正元(1504)年に永昌院に移されました。その後、長い間遠州の地で流落していたところを徳川家康の配慮によって再び永昌院に戻されています。遠州で本鐘が発見された経緯については、寺伝によると武田勝頼が陣鐘として遠州に出立したことによると伝えられています。
(看板資料より)

 



2003年08月30日

 

龍石山 永昌院
この寺はもと禅定院という真言宗の寺であったが、文明年間(1469-86)開基武田信昌が一宮町の中山広厳院から一華文英和尚(神嶽通龍禅師)を迎えて、曹洞宗の龍石山永昌院として開山した。信昌は法名を永昌院殿傑山勝公大禅定門と云い、この境内にねむる。
寺宝には、甲斐守護武田信昌によって寄進の銅鐘や一華文英和尚が後柏原天皇から禅師の称号と併せ賜った紫衣など山梨県指定文化財の他、後奈良天皇から四世悟宗純嘉和尚に賜った禅師号綸旨、武田晴信の判物、二世菊隠瑞潭の菊隠録、我が国最古に属する五人組帳等がある。
(看板資料より)

 


永昌院 勅賜紫衣
永昌院の開基武田信昌は一宮町、中山広厳院の開山雲岫宗竜の高弟で、同院二世一華文英を迎えて開山とした。
一華文英は英明特に優れ、永正3(1506)年後柏原天皇から神岳通竜禅師の号と紫衣を賜った。
(看板資料より)

五人組帳
五人組は江戸時代に町人・百姓を統制するため設けられた隣保組織である。永昌院五人組帳の条目は、三か条からなり、特に犯罪防止に重点をおいたところに特徴があり、江戸初期のものとしては全国的にも最古に属し貴重な資料である。
(看板資料より)

菊隠録
当院、第二世菊隠瑞潭の永正2(1505)年から大永4(1524)年にいたる間の法語集で、甲斐の中世を知るうえに欠くことのできない史料としてその価値が高い。
(看板史料より)


 

永昌院の銅鐘
本鐘は、総高約112cmあり、南北朝時代の永和2(1376)年につくられたもので、その時代の特色が見られる。鐘身には鋳造年月日や、その経歴が陰刻されている。それによれば、初め明野村大林寺の鐘であったが、その後、応永27(1420)年に甲府の東光寺に移り、さらに永正元(1504)年甲斐守護職武田信昌が永昌院に納めて現在に到ったことがわかる。また、武田勝頼が三河攻めに持ち出し遠州にあったが、元和(1615-1624)頃再度永昌院に還ったという伝承もある。
(看板資料より)

 

 
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