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静岡県静岡市

江尻

2004年05月01日

昔この江尻小学校および中部電力清水営業所の敷地周辺に江尻城(小芝城)がありました。戦国時代駿河国を治めていた今川義元が、永禄3(1560)年尾張国の桶狭間で織田信長の奇襲にあい戦死した後、永禄11(1568)年12月甲斐国の武田信玄は駿河に攻め入りこの地を占領しました。翌年信玄は東の北条氏、西の徳川氏に対抗するため、蛇行する巴川を利用して急いでここに城を築きました。
10年後の天正6(1578)年城将であった穴山梅雪は、城を大改築して高層の楼閣を建て「観国楼」と名付け、江尻を城下町とする本格的な城となりましたが、天正10(1582)年3月西から攻めてきた徳川家康に降伏して江尻城を明渡しました。
その後家康が江戸に移るとともに、豊臣氏、徳川氏と城将が代わりましたが、慶長6(1601)年城ができてから32年を経て廃城となりました。城があったことを物語るように本校の周辺の地名(小字名)として、櫓、本丸、東二の丸、西二の丸、硫黄堀、薬研堀、近習小路、桜小路、代官小路等がありました。
明治42(1909)年この地を所有していた本郷町の望月健吉氏は小公園を造り、江尻城のあったことを祈念してこの「小芝城の碑」を建てました。大正12(1923)年小公園に工場が建設されるため、小芝八幡宮の境内に移され72年を経て元あった本校の校内に平成7年3月に移設されました。
(看板資料より)

二の丸町の由来
武田信玄が永禄12(1569)年東の北条、西の徳川に備え、江尻城を築いたが、天正10(1582)年江尻城は徳川の手に渡り、後に廃城となった。城の本丸、二の丸、三の丸はその面影を残しながら時代と共にその姿を変えていった。なかでも二の丸の跡地は明治の頃より独立した自治組織があり城にちなみ「二の丸」とよばれ現在に至っている。また二の丸には城の鬼門除けとして、二の丸稲荷神社が造られ、城の名残の石垣が江尻小学校校舎の南西にあったと伝えられている。
(看板資料より)


江尻城は江尻小学校の校庭の中にその碑が残されていました。すでに遅い時間でしたが学校の先生のご配慮により学校内に立ち寄らせていただくことができました。

 

 
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