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岐阜県高山市

江馬輝盛の墓

2006年05月04日

江馬輝盛の墓

京都における応仁の乱(1467年)以降日本全国は戦国時代となり、各地に戦乱が広がっていくが飛騨地方においても北部(高原郷)には江馬氏、中部(古川盆地)には姉小路氏、広瀬氏、小島氏、南部(益田・大野郡)には三木氏の群雄が割拠していた。
江馬氏は高原郷に本拠を置く豪族で、1582年飛騨の平定を目論み、大阪峠を越えて八日町の梨打城に入り、古川盆地に進出しようとした。それを阻もうとする三木自綱・小島時光・牛丸又右衛門の連合軍と、八日町荒城川をはさんで激しい戦いを展開した。この戦いは三木連合軍の勝利に終わり、江馬輝盛はこの地で討ち取られ、十六代つづいた北飛騨の名門江馬氏もここに滅んだ。ここで討ち死にした江馬輝盛を哀れに思った安国寺のお坊さんが建てたものと言われている。
(看板資料より)


江馬輝盛の切腹石

江馬輝盛の墓は神岡にある江馬氏菩提寺の円城寺にあるそうなのですが、実際に国府町のこの地で戦死したとのことでありここにも墓がありました。
江馬輝盛の墓の前で農作業をしていた方に、江馬輝盛の切腹石というのがあると教えていただきその写真を撮ることもできました。
また十三士之碑の場所も教えてくれました。

 

 
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