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静岡県藤枝市

花倉城

2014年12月28日

本丸

花倉城は今川氏3代目範国が足利将軍尊氏の命を受けて駿遠へ進出し、その子範氏が文和2年(1353)花倉に居館を構え背後の山上に詰城を築いたものと伝えられています。
その後、氏家、泰範、範政と3代約60年間今川氏の本拠地として栄え、範政が駿府へ本拠地を移した応永18年(1411)後も一族を花倉遍照光寺の住職とし堅塁花倉城を駿府の西の守りとしていた。
300m山上の本曲輪は現在雑木が密生しているところで、これを切払えば昔と同じ見晴らしの良い適地が現れるでしょう。本曲輪と二の曲輪の間及び西南80m程の所に大きな空掘も残っています。
山麓勝谷に範氏の建てた遍照光寺(現在の遍照寺)、東側の半谷に泰範の建てた長慶寺があり、ここには範氏、氏家、泰範の墓が並んでいます。
今川氏館があったところは、遍照寺前の平地と伝えられています。
(看板資料より)


本曲輪と二の曲輪の間の空掘


二の丸

花倉城は最高所に長さ40m、幅11mの平場(本丸)を造り、北西・南・南西に各曲輪を付け、特に南西隅から西へ伸びる長尾根の基部に弾状の曲輪を西方の先端となる二俣尾根に平場を設けている。
本丸の南へ、空掘を隔てて二の丸が続く。二の丸は周囲に低い土塁を巡らし、南東隅に虎口がある。この虎口の外側に小郭(枡形状)が付き、一段下がると、二の丸の東側を走る幅5mの帯曲輪が本丸の南まで続いている。
二の丸南方は本丸間と同様、幅6mの空掘で、ここから南へ100mほど尾根を下った所にもう1条の空掘がある。城は西から南へ斜面が比較的緩く、本丸および二の丸へは、城山南方から西側斜面を伝って攻撃されやすいため、尾根上を切る空掘を西側斜面上に長く延長させている。
特に本丸・二の丸間の堀と二の丸南の堀は、西側斜面下方においてY字状となり、谷底へ降下している。
二の丸から東へ尾根を下りた城山中腹部に広い平坦地があり、大手口守備の曲輪跡と考えられ、ここからは南東の「勝谷」、北東の「西方」へ下る山道がある。
(日本城郭大系より)

二の丸土塁


二の丸下の帯曲輪


西南80m程の所にある大きな空掘


古道


土橋


2001年10月08日

花倉城は今川氏3代目範国が足利将軍尊氏の命を受けて駿遠へ進出し、その子範氏が文和2年(1353)花倉に居館を構え背後の山上に詰城を築いたものと伝えられています。
その後、氏家、泰範、範政と3代約60年間今川氏の本拠地として栄え、範政が駿府へ本拠地を移した応永18年(1411)後も一族を花倉遍照光寺の住職とし堅塁花倉城を駿府の西の守りとしていた。
300m山上の本曲輪は現在雑木が密生しているところで、これを切払えば昔と同じ見晴らしの良い適地が現れるでしょう。本曲輪と二の曲輪の間及び西南80m程の所に大きな空掘も残っています。
山麓勝谷に範氏の建てた遍照光寺(現在の遍照寺)、東側の半谷に泰範の建てた長慶寺があり、ここには範氏、氏家、泰範の墓が並んでいます。
今川氏館があったところは、遍照寺前の平地と伝えられています。
(看板資料より)


花倉城は、烏帽子形山の支峰である城山の頂上部に築かれた室町時代初期の山城である。この山城は14世紀後半、今川範氏が駿河支配のため葉梨荘内に入り居館の詰城として築城したものとされる。16世紀後半には今川義元と兄である花倉遍照光寺住持良真との間で起きた家督争い(花倉の乱)の舞台ともなった。
(藤枝市教育委員会)


本丸

二の丸からの景色

車を止めた場所

花倉城の場所もかなり分かりづらく、途中行き過ぎてしまっておばちゃんに聞いて逆戻りして茶畑の中を走り、気付いてみたら右の写真のような狭い道で行き止まりになってしまいました。車はここで乗り捨てて歩き始めたのですが雨が降り始めるしどこまで行っても城への入口にさえ着きませんでした。30分以上歩いてやっと入口にたどり着き、そこからはいつものような山登りでした。
帰りは崖から落ちないように慎之介殿に見てもらいながら何度も切り返してやっとのことで切り返しに成功。その後違う道を選んだのですが狭い私道でした。大小屋以来の緊張した運転でしたがなんとか脱出することができました。

 

 
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