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山梨県笛吹市

八田家書院

2014年07月12日

八田家書院と表門
八田家は昔武田氏の蔵前奉行として、年貢の収納、軍糧の輸送を司どっていたため、天正10(1582)年3月織田軍の兵火に罹り居宅その他を悉く焼失した。同年7月徳川家康入国の際、徳川家に隷属し、家康から万力御林の材木を賜って母屋『この建物は安政6(1859)年7月笛吹川洪水のため大破したので取壊す』を造立し、又慶長6(1601)年都留郡富士根の材木を賜って書院を構築した。
この書院は茅葺入母屋造、桃山時代末期の武家書院様式で現在まで補修が完備して、よく当時の格調を保存しているとの理由で昭和36年12月7日山梨県指定文化財となった。
同家表門は寛文元(1661)年石和代官所創設の際代官平岡勘三郎良辰が石和陣屋表門として建立したものを、明治7(1874)年11月払い下げを受けて当家の表門としてここに移築したものである。
(看板資料より)


八田家書院

八田家御朱印屋敷と書院
八田氏は八田権頭宗綱(常陸国、宇都宮氏流)の末裔とされるが詳細は不明である。戦国期に武田氏に仕え、信玄の頃は蔵前衆の要職にあった。家重のときに一宮町末木の地を武田氏から拝領し姓を末木に改めたが、武田滅亡のあとも徳川家康の庇護を受け、末木政清は八田に復姓した。天正11(1583)年4月兄政清が、同9月には弟の新左衛門尉が棟別の免許を受けている。
新左衛門尉には男子がなく、政清の二男政俊(菅太郎)が両家を相続し、苗字帯刀を許されるとともに、3400坪の屋敷地が御朱印地として安堵された。現在の八田家屋敷地は御朱印地の西の一画で、旧笛吹川に面する北辺には高い部分で約2mある水防堤を兼ねた土塁が残る。
八田家の由緒書きによれば、天正10(1582)年3月、織田軍の兵火により建物はことごとく焼失してしまったという。しかし徳川幕府により万力(山梨市)や富士裾野の木材の使用許可を得て建物は再建された。現在残っている書院はこのときに建築されたようである。伝承によれば屋敷地には主屋のほか、西座敷、西蔵、中味噌蔵、文庫蔵、御方屋、酒部屋などがあったという。主屋については安政水害後に取壊された際の記述で「間口11間、奥行4間、カンバ葺」となっており、石置屋根で内部は柱と壁が密に配されていたらしい。
茅葺入母屋造の本書院の間取りは西から九畳の奥間、十五畳の中間、八畳の三の間が並び、これに一間の入側、式台玄関などが配される。柱には栂材を用い、各間の内装は長押し打ち、竿縁天井張りの書院造の造作を維持する。ただし奥間の柱のみ径四寸の杉の面皮柱を用い、付書院、肘掛窓とあわせて数奇屋風を醸し出している。
書院の建築年代は特定されていないが、東隣の願念寺より二年古いという伝承がある。様式、木割、残る建具の一部など古い要素をとどめる一方、天井の竿縁が太いこと、数奇屋風の奥間まどは17世紀後半の特徴を具えている。
古文書は多く、永禄12(1569)年の末木家重譲状を筆頭に、絵図まで含まれている。慶長11(1606)年の家財、人別、牛馬の目録のほか、安永〜寛政年間の「永々日記」、寛政〜明治年間の「家政歴年誌」、土蔵棟札(文久元年)などがある。
(看板資料より)

書院内部


武田家朱印状

 



2004年08月14日

八田家書院と表門
八田家は昔武田氏の蔵前奉行として、年貢の収納、軍糧の輸送を司どっていたため、天正10(1582)年3月織田軍の兵火に罹り居宅その他を悉く焼失した。同年7月徳川家康入国の際、徳川家に隷属し、家康から万力御林の材木を賜って母屋『この建物は安政6(1859)年7月笛吹川洪水のため大破したので取壊す』を造立し、又慶長6(1601)年都留郡富士根の材木を賜って書院を構築した。
この書院は茅葺入母屋造、桃山時代末期の武家書院様式で現在まで補修が完備して、よく当時の格調を保存しているとの理由で昭和36年12月7日山梨県指定文化財となった。
同家表門は寛文元(1661)年石和代官所創設の際代官平岡勘三郎良辰が石和陣屋表門として建立したものを、明治7(1874)年11月払い下げを受けて当家の表門としてここに移築したものである。
(看板資料より)

八田家御朱印屋敷と書院
八田氏は八田権頭宗綱(常陸国、宇都宮氏流)の末裔とされるが詳細は不明である。戦国期に武田氏に仕え、信玄の頃は蔵前衆の要職にあった。家重のときに一宮町末木の地を武田氏から拝領し姓を末木に改めたが、武田滅亡のあとも徳川家康の庇護を受け、末木政清は八田に復姓した。天正11(1583)年4月兄政清が、同9月には弟の新左衛門尉が棟別の免許を受けている。
新左衛門尉には男子がなく、政清の二男政俊(菅太郎)が両家を相続し、苗字帯刀を許されるとともに、3400坪の屋敷地が御朱印地として安堵された。現在の八田家屋敷地は御朱印地の西の一画で、旧笛吹川に面する北辺には高い部分で約2mある水防堤を兼ねた土塁が残る。
八田家の由緒書きによれば、天正10(1582)年3月、織田軍の兵火により建物はことごとく焼失してしまったという。しかし徳川幕府により万力(山梨市)や富士裾野の木材の使用許可を得て建物は再建された。現在残っている書院はこのときに建築されたようである。伝承によれば屋敷地には主屋のほか、西座敷、西蔵、中味噌蔵、文庫蔵、御方屋、酒部屋などがあったという。主屋については安政水害後に取壊された際の記述で「間口11間、奥行4間、カンバ葺」となっており、石置屋根で内部は柱と壁が密に配されていたらしい。
茅葺入母屋造の本書院の間取りは西から九畳の奥間、十五畳の中間、八畳の三の間が並び、これに一間の入側、式台玄関などが配される。柱には栂材を用い、各間の内装は長押し打ち、竿縁天井張りの書院造の造作を維持する。ただし奥間の柱のみ径四寸の杉の面皮柱を用い、付書院、肘掛窓とあわせて数奇屋風を醸し出している。
書院の建築年代は特定されていないが、東隣の願念寺より二年古いという伝承がある。様式、木割、残る建具の一部など古い要素をとどめる一方、天井の竿縁が太いこと、数奇屋風の奥間まどは17世紀後半の特徴を具えている。
古文書は多く、永禄12(1569)年の末木家重譲状を筆頭に、絵図まで含まれている。慶長11(1606)年の家財、人別、牛馬の目録のほか、安永〜寛政年間の「永々日記」、寛政〜明治年間の「家政歴年誌」、土蔵棟札(文久元年)などがある。
(看板資料より)

 
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