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長野県松本市

林城(大城)

2014年05月25日

林城(大城)全景

林城(小城)から見た林城(大城)

小笠原氏城跡・林城
1.大城(金華山城)
2.小城(福山城)
指定
昭和45年10月22日長野県文化財保護条例第二条により長野県史跡に指定。
規模
この城跡は林城の大城、小城並びにその前衛をなす埴原城を含めた雄大な要害で守護小笠原氏の貫禄を示す本県の代表的なものである。大城は松本市里山辺と入山辺にまたがる丘陵上に構築され、本郭第二郭ともに副郭、土塁石垣を備え数条の帯郭をめぐらし山林の要部に大小幾多の空掘を配し、近く大城に劣らぬ防備をもった小城に連なり遠く数多くの支城に囲まれていた。本郭の東北部には水の手の遺構、城下の林部落には町割、侍屋敷の名残をとどめている。
説明
この史跡は建武年中(1334〜)信濃守護小笠原貞宗の府中に井川館を設けて以来、長時が武田晴信に敗れて退去した天文19(1550)年まで約200年間、きびしい戦国の世に処した小笠原氏の本拠地で中世における連立式の築城遺構をもっている。深い歴史を秘めた貴い遺構であるから観光等による破壊から護りたい。
(看板資料より)

林大城の石垣と土塁
本丸は東西48メートル、南北21〜37メートルあまりで、西方を除いて石垣、土塁がめぐっている。土塁敷は4、5メートル、高さ3メートル上部の幅は1〜2メートルに及んでいるが南側は痕跡を残す程度の低さである。
本丸をめぐる土塁は戦いに鉄砲が使われだしてから玉をよけるために築かれるようになり土塁の後には石積みがあり、この石は入山辺の山家城の石よりも小さく河原の石をそのまま使った素朴な乱れ積みである。
このように当時そのままの石積みは私たちに歴史を語りかけてくれます。どうぞこれからも城址と供に石垣を大切にしてください。
(看板資料より)

本郭

南北朝争乱時の功績により信濃守護となって府中(当時の松本の呼称)に入った小笠原氏は、戦国時代に武田晴信が信濃に進攻するまでの間、筑摩郡及び安曇・伊那地域を中心に勢力を張った。その間小笠原氏は、平地の城館である井川城と山城の林城を根拠地として、四周に順次山城群を配置して強固な防衛線を構えた。
筑摩山地の西側に突き出した尾根に構築された林城と一括される大城と小城は、狭間に大嵩崎集落を挟んで連立し、林城の東に深く入り込む山辺の谷には、桐原城・山家城を配して小県佐久地域に備え、北方は伊深城・犬甘城・平瀬城などを配して固め、諏訪伊那地域に通ずる南方の要には埴原城を構える他、筑摩山地の西面の各所に砦を築いて、一帯は大要塞群をなしていた。
その後、各々の城は武田氏により修築が行われたものと思われるが、堅掘の構造、配置など、小笠原氏の山城に特徴的な基本構造は、今日までよくその姿を留めており、それらの城砦群は、小笠原氏の興亡を語る貴重な史跡である。
(看板資料より)

本郭の土塁

本郭奥の堀切

石垣



2003年07月05日

小笠原氏城跡・林城
1.大城(金華山城)
2.小城(福山城)
指定
昭和45年10月22日長野県文化財保護条例第二条により長野県史跡に指定。
規模
この城跡は林城の大城、小城並びにその前衛をなす埴原城を含めた雄大な要害で守護小笠原氏の貫禄を示す本県の代表的なものである。大城は松本市里山辺と入山辺にまたがる丘陵上に構築され、本郭第二郭ともに副郭、土塁石垣を備え数条の帯郭をめぐらし山林の要部に大小幾多の空掘を配し、近く大城に劣らぬ防備をもった小城に連なり遠く数多くの支城に囲まれていた。本郭の東北部には水の手の遺構、城下の林部落には町割、侍屋敷の名残をとどめている。
説明
この史跡は建武年中(1334〜)信濃守護小笠原貞宗の府中に井川館を設けて以来、長時が武田晴信に敗れて退去した天文19(1550)年まで約200年間、きびしい戦国の世に処した小笠原氏の本拠地で中世における連立式の築城遺構をもっている。深い歴史を秘めた貴い遺構であるから観光等による破壊から護りたい。
(看板資料より)

林大城の石垣と土塁
本丸は東西48メートル、南北21〜37メートルあまりで、西方を除いて石垣、土塁がめぐっている。土塁敷は4、5メートル、高さ3メートル上部の幅は1〜2メートルに及んでいるが南側は痕跡を残す程度の低さである。
本丸をめぐる土塁は戦いに鉄砲が使われだしてから玉をよけるために築かれるようになり土塁の後には石積みがあり、この石は入山辺の山家城の石よりも小さく河原の石をそのまま使った素朴な乱れ積みである。
このように当時そのままの石積みは私たちに歴史を語りかけてくれます。どうぞこれからも城址と供に石垣を大切にしてください。
(看板資料より)


林城

南北朝争乱時の功績により信濃守護となって府中(当時の松本の呼称)に入った小笠原氏は、戦国時代に武田晴信が信濃に進攻するまでの間、筑摩郡及び安曇・伊那地域を中心に勢力を張った。その間小笠原氏は、平地の城館である井川城と山城の林城を根拠地として、四周に順次山城群を配置して強固な防衛線を構えた。
筑摩山地の西側に突き出した尾根に構築された林城と一括される大城と小城は、狭間に大嵩崎集落を挟んで連立し、林城の東に深く入り込む山辺の谷には、桐原城・山家城を配して小県佐久地域に備え、北方は伊深城・犬甘城・平瀬城などを配して固め、諏訪伊那地域に通ずる南方の要には埴原城を構える他、筑摩山地の西面の各所に砦を築いて、一帯は大要塞群をなしていた。
その後、各々の城は武田氏により修築が行われたものと思われるが、堅掘の構造、配置など、小笠原氏の山城に特徴的な基本構造は、今日までよくその姿を留めており、それらの城砦群は、小笠原氏の興亡を語る貴重な史跡である。
(看板資料より)


遊歩道途中の休憩所

東城山遊歩道の解説
東城山遊歩道は長野県指定文化財「小笠原氏城跡」の中に整備された自然に親しむ散策道です。
この城は林城と呼ばれ、その創始は室町時代、小笠原長朝の代とされています。戦国時代に入ると山城としての重要性が増し林白を核として前面には深志城(松本城の前身)、犬甘城、山辺谷には桐原城、中入城、浅間、岡田方面には伊深城、稲倉城、さらに南には埴原城、熊井城に至るまで小笠原支配下の武将によって東山一帯を固めた守護の城にふさわしい堂々たる構えの山城となりました。
林城の構造は、山頂に主郭と西に四つの副郭や空濠かたなっています。主郭の広さは東西68メートル、南北27メートル余りで周囲に土居をめぐらしてあり、特に東部には1メートル余りの石垣も残っています。
東城山遊歩道はふもとの金華橋から山頂の主郭まで全長約1キロメートルの散策道ですが、注意深く観察すると多くの歴史的遺構が確認できます。
(看板資料より)


遊歩道を少し登ったところから松本市内方面

林城へは東城山遊歩道から登ったのですがこの道はけっこう疲れる道でした。頂上まで行って分かったのですが裏側から車で登れる道(普通の車では困難?)がありました。結局帰りは同じ道を帰るのも面白くない!と思って車の道を下ったのですが下りたところはまったく反対側だったのでここからまた歩いて遊歩道の入口まで戻ることになり、ちゃんと下調べをしておけばこんなに疲れなかったのに。。と思いましたがしかし遊歩道は必ず歩くべきですね。何段にもなった曲輪が連続し規模の大きさを実感しました。雰囲気的には小県の長窪城のように山の尾根を利用して細長く曲輪が続くような感じですが規模は全然違います。こんなに雄大な本城とその周りに配した支城による難攻不落とも思える松本平も戦うことなく武田晴信に占領されてしまっているんですね。まさしく人は城人は石垣人は掘〜を実感します。

 

 
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