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長野県安曇野市


2014年11月16日

光城址と古峯神社のゆかり
この山頂にお城が築かれたのは遠く500年余りの昔、戦国時代もまだまだ始めの頃、海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光之六郎幸元と名乗ったといわれている。この海野氏の一族はそのころ会田、刈谷原、田沢(上の山)、塔ノ原にそれぞれ城を築き、互いにノロシ等を使って連絡しあって栄えていたので、城内の最も高い所でノロシ台のあたりに火の守り神とされるこの古峯神社が祭られてきたものであろう。
やがて戦国時代の末頃、川中島の合戦が近付くや、武田信玄(晴信)の先鋒によって、天文22(1553)年3月、刈谷原城などと供に光の城も攻め落とされて武田方に従ったということである。
(古峯神社内の看板資料より)

光城跡
豊科町内では規模の大きな山城で、鎌倉時代にこの地に来住した海野氏の一族、光氏によって戦乱の激しくなった戦国時代(16世紀)に築かれたと考えられる。
犀川右岸丘陵上の尾根道南端を固めており、武田氏の松本進攻に対しても、兵を配備し籠城したとみられる。しかし天文22(1553)年、刈谷城攻めに際し戦わずして落城した。その後天正10(1582)年に松本城主となった小笠原貞慶によって修復されたと考えられる。
(看板資料より)



2003年07月05日

光城址と古峯神社のゆかり
この山頂にお城が築かれたのは遠く500年余りの昔、戦国時代もまだまだ始めの頃、海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光之六郎幸元と名乗ったといわれている。この海野氏の一族はそのころ会田、刈谷原、田沢(上の山)、塔ノ原にそれぞれ城を築き、互いにノロシ等を使って連絡しあって栄えていたので、城内の最も高い所でノロシ台のあたりに火の守り神とされるこの古峯神社が祭られてきたものであろう。
やがて戦国時代の末頃、川中島の合戦が近付くや、武田信玄(晴信)の先鋒によって、天文22(1553)年3月、刈谷原城などと供に光の城も攻め落とされて武田方に従ったということである。
(古峯神社内の看板資料より)


光城跡
豊科町内では規模の大きな山城で、鎌倉時代にこの地に来住した海野氏の一族、光氏によって戦乱の激しくなった戦国時代(16世紀)に築かれたと考えられる。
犀川右岸丘陵上の尾根道南端を固めており、武田氏の松本進攻に対しても、兵を配備し籠城したとみられる。しかし天文22(1553)年、刈谷城攻めに際し戦わずして落城した。その後天正10(1582)年に松本城主となった小笠原貞慶によって修復されたと考えられる。
(看板資料より)


光城から北アルプスを望む

ここは最初駐車場から上に登ったところに行ったものの何も発見できなかったので引き返してきて車の写真を撮っているうちに、どこからかスキーのストックを持ったおばさんが現れて城址まで案内してくれました。危うく何も発見できずに帰ってしまうところでした。城址は最初の看板から180°回転して進んで行き2つに分かれた道のうち右側が駐車場で左側は車両進入禁止になっていますが、駐車場に車を止めて左側の道を徒歩で行くとたどり着けます。

さきほどのおばさんはアルプス登山のためのトレーニングで来ていたそうで、ここらへんはトレーニングには最適なのだそうです。光城跡から見えた北アルプスの景色も絶景でした。この時期にこれだけきれいにアルプスが見れるのも希だそうです。この景色を見るためだけでも登って来る価値があるかもしれません。

 

 
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