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埼玉県小鹿野町

日尾城

2013年01月04日

史蹟日尾城跡之碑

日尾城は小鹿野町大字日尾と同大字飯田との境にある典型的な山城で、秩父札所31番鷲屈山観音院の岩崖に続く所に要害を構えていた。東が大手で、東西に長く南北は狭い。南と西は切り立った断崖。東側は城址から400mほどの所に「切落とし」または「犬戻り」と呼ばれている岩壁が屹立し、天然の要害である。
築城は戦国時代と伝えられ、鉢形北条氏の出城で長瀞町岩田の天神山城、同町矢那瀬の虎ヶ岡城、皆野町日野沢の高松城、横瀬村根古屋の根古屋城と共に甲斐武田勢の侵入に備えて西秩父方面を防備するために築城されたといわれる。城主は鉢形城筆頭家老諏訪部遠江守定勝と伝えられるが、天正18(1590)年、鉢形落城と共に廃城となった。
伝承によれば、諏訪部定勝は酒好きで、永禄12(1569)年、山県三郎右兵衛尉昌景が日尾城を攻撃した時、定勝は泥酔していて立てず、奥方が代わりに城兵を指揮して戦い、ついに山県勢を追い払ったため、以降定勝は禁酒し、天正18年の上杉勢の鉢形攻めには城主北条氏邦を助けて善戦したという。
(日本城郭大系より)

馬上城山八幡

現在、城址の名残をとどめるものとしては、八幡郭・出丸・櫓台と伝えられる平坦な場所があり、この他にも物見とみられる平坦地がいくつかみられる。山頂をわずかに下った北側の山腹には土に埋もれて定かではないが、低い石垣が認められ、四段の郭を画している。現在は杉が造林されている。ここが本丸跡だともいわれている。
八幡郭跡とみられる城山八幡社の傍らには「史跡日尾城跡」と刻まれた石碑があるほか、樹齢四百年ともいわれる松の大木があり、郭の下の北側の尾根には空堀が残っている。出丸は八幡郭の南側にあり、かなりの広さの平坦地で、三山方面の見晴らしが良く、日尾城の見張台といわれる小鹿野町間明平の要害山を望み、出丸の東側にある上下三段の物見台からは土板方面の眺望がひらけ、もう一つの見張台とされる吉田町塚越にある城山を望んでいる。
北側の急斜面を下ると、荒神天狗と呼ばれる露岩があり小祠が祀られ、足下は深谷でここからは日尾の集落と日尾街道が見渡せ、やはり物見として使用されていたことを物語っており、さらにこの下にも二ヶ所の平坦地がある。日尾城の大手といわれている道には月見岩と呼ばれる岩がある。
小鹿野町三山には永禄12年の武田勢との交戦(三山谷の合戦)を伝える古文書が残されており、付近に「軍平」のほか、「法師落人」「納宮」などの地名も残っている。
郭周辺には城内の飲料水に使用されたと伝えられる湧水がある。
(日本城郭大系より)


炭焼き釜跡

秩父札所31番鷲屈山観音院の駐車場に車を止めてお土産売場の人に日尾城への行き方を聞いてみたら、快く教えてくれました。駐車場の奥にある橋を渡って後は道なりに看板に従っていけば30〜40分で行けるとのことでした。基本的に遊歩道として整備されていましたが、途中かなり悪路になり登りもきつくなります。
約15分程で牛首峠にたどり着くことができ、そこからはすぐに山頂に着きました。山城というより山そのものといった感じでした。

牛首峠

 
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