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長野県小諸市

平原城

2009年05月05日

平原城が記録上はっきりしてくるのは平原全真からである。依田氏の系統に属するといわれる平原氏は、いつの頃からか上野に移り、後閑城にいたが、永正〜大永年間の頃、村上義清の支援を得て平原に入ったのが平原全真である。
甲斐武田氏が佐久郡に本格的な侵攻を開始したのは天文9(1540)年からで、同12年には武田信玄自身が出馬して、佐久の九城を降したといわれるが、平原全真もこの時、武田氏に属することになった。しかし同17年、信玄が上田原で村上氏と戦って敗れると、佐久は動揺して武田氏に背く者が多かったため、同18年信玄は再び佐久の諸城を攻略した。平原城に関して「高白斎記」は9月4日平原ノ宿城放火と記しており、平原城は完全に信玄の手中に入った。この時の戦火で、全真の開基した正眼院も焼失したと伝えられている。
平原城を手中にした信玄はここを佐久北部の拠点にしたようである。つまり永禄7(1564)年に関東に出兵して武蔵で戦った後、平原へ帰陣している。
武田氏滅亡後は一時北条氏に仕えたが、その後徳川配下の依田信蕃が佐久を攻略し、平原全真と甥の盛繁は戦わずして信蕃に降った。依田信蕃の子松平康国が小諸城主になってからはこれに仕えていたが、やがて高崎御城番に転出し、平原城は以降廃城となった。
(日本城郭大系より)

日本城郭大系によれば平原城は正眼院の近くとのことでまずは正眼院をめざしました。ここに車を止めさせて頂き周辺を散策してみました。ビニールハウスの中で作業をしていた方に平原城のことを聞いてみたら丁寧に場所を教えてくれました。そこに向う途中も郭や土塁と思われる遺構らしきものを確認することができました。教えてもらった場所に行ってみると鳥居と祠があって稲荷大明神と書かれていました。その先は崖になっていて下はすぐ建物が隣接していました。


正眼院

 

 
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