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千葉県松戸市

本土寺


2012年01月09日

長谷山本土寺は、建治3(1277)年豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子日朗を導師として招き、開堂したのが起こりです。本土寺は池上の「長栄山本門寺」、鎌倉の「長興山妙本寺」とともに「朗門の三長三本の本山」と称される屈指の名刹で、松戸地方における日蓮宗の教団活動の中心とされました。
ここは日蓮直筆の書状をはじめとして松戸市域の貴重な中世資料が数多く所蔵されています。
近年においては境内の整備がなされ、「あじさい寺」として市民にも親しまれています。
(看板資料より)


秋山夫人の墓

秋山夫人は甲斐武田一族である秋山虎康の娘で、15才で徳川家康の側室となり、名を於都摩の方または、下山の局と称され、家康の第5子万千代君を生んだ。万千代君は後に武田信吉を名乗り天正18(1590)年に小金城三万石に封ぜられた。秋山夫人はその翌19年10月日、小金で病死した。
現在の墓石は信吉の甥、徳川光圀が貞享元(1684)年に建立したものである。
(看板資料より)

秋山夫人墓
本堂長廊下の右手歴代墓所入口に在る大きな墓碑がそれであり、以前は参道左手の一老松下にあったが、水戸光圀が祖先の祭祀を勤める為現在地に改葬し、香華料として20石6斗の朱印地を添えたものである。
(本土寺パンフレットより)


秋山虎康の墓

秋山虎康は甲斐の武田二十四将の一人秋山伯耆守信友の甥で信玄と勝頼に仕えました。虎康が死亡したのは慶長7(1602)年6月で、市内で最も古い墓です。
(看板資料より)


秋山一族の墓

秋山氏は甲州武田家の重臣から徳川家の旗本に転じ、平賀本土寺の檀那となった。本土寺には秋山虎康、昌秀、正重の三代と一族20名の墓石が現存しており、「本土寺過去帳」にも秋山一族の記載がある。虎康の墓石は正面に「自徳院殿従五位下前越州刺史日楽大居士」、左側面に「中興祖秋山越前守源虎康」、右側面に「慶長7年壬虎6月17日」とあり、この墓石は松戸市で最古であるという。昌秀夫妻と正重夫妻の墓は極めて立派な宝篋印塔である。
武田家中にあった秋山虎康は信玄の死後勝頼に失望して下山城主穴山信君(梅雪)に従って2人の兄と共に徳川家康に下った。虎康の娘於都摩は信君の養女となり、家康の側室に差し出された。天正10(1582)年6月、信君と虎康の2人の兄弟(日相、日陽)は、山城宇治田原で一揆に襲われ落命してしまう。天正19年10月、虎康は娘の於都摩(小金城主武田信吉の母)に先立たれるが、その三ヶ月後には虎康の妻とみられる妙徳院日台が他界している。このころ虎康(73歳)は葛飾郡荒谷(松戸市大橋)に定住し、入道して日楽と名乗った。荒地を切り開き、慶長元(1596)年9月には大橋村に了修山本源寺を開いて本土寺の末寺としている。慶長7年6月17日84歳で没した。
虎康の子昌秀は、父と共に武田家から徳川家康の家臣に転じ、下総国に采地百石を受領して鉄砲奉行を勤めている。元和9年1月20日没。70歳。法号は覚心院殿日源。
その子正重は秀忠に仕え、元和4(1618)年目付となり、上総国長柄郡のうちに千石を知行し、元和9年昌秀が病没すると家督を継いで2千石となり、寛永4(1627)年には従五位下修理亮に就任している。旗本秋山氏の基礎はこの正重によって築かれた。本土寺には日耀上人代の寛永17(1640)年10月2日、正重から寄進された狩野探幽の山水画三幅対が現存している。
(本土寺物語より)

 

 
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