本土寺 |
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長谷山本土寺は、建治3(1277)年豪族平賀忠晴の屋敷内に、日蓮上人の弟子日朗を導師として招き、開堂したのが起こりです。本土寺は池上の「長栄山本門寺」、鎌倉の「長興山妙本寺」とともに「朗門の三長三本の本山」と称される屈指の名刹で、松戸地方における日蓮宗の教団活動の中心とされました。 |
秋山夫人の墓
秋山夫人は甲斐武田一族である秋山虎康の娘で、15才で徳川家康の側室となり、名を於都摩の方または、下山の局と称され、家康の第5子万千代君を生んだ。万千代君は後に武田信吉を名乗り天正18(1590)年に小金城三万石に封ぜられた。秋山夫人はその翌19年10月日、小金で病死した。 秋山夫人墓 |
秋山虎康の墓
秋山虎康は甲斐の武田二十四将の一人秋山伯耆守信友の甥で信玄と勝頼に仕えました。虎康が死亡したのは慶長7(1602)年6月で、市内で最も古い墓です。 |
秋山一族の墓
秋山氏は甲州武田家の重臣から徳川家の旗本に転じ、平賀本土寺の檀那となった。本土寺には秋山虎康、昌秀、正重の三代と一族20名の墓石が現存しており、「本土寺過去帳」にも秋山一族の記載がある。虎康の墓石は正面に「自徳院殿従五位下前越州刺史日楽大居士」、左側面に「中興祖秋山越前守源虎康」、右側面に「慶長7年壬虎6月17日」とあり、この墓石は松戸市で最古であるという。昌秀夫妻と正重夫妻の墓は極めて立派な宝篋印塔である。
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