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静岡県浜松市

犬居城

 
2013年12月31日

物見曲輪

犬居城址概要
犬居城は、領主・天野氏の居城だったもので、行者山(標高250m)の頂に、東西600m、南北650mに遺構が広がる県内でも代表的な中世城館跡であり、静岡県史跡に指定されている貴重な文化財です。断崖絶壁で険阻となっている南側に対し、北側と西側は比較的穏やかで攻撃を受けやすい地勢を考慮して西側から東側にかけて物見曲輪・本曲輪・東曲輪などが配置されており、今でも空掘りや掘切等の遺構が確認できます。
(看板資料より)

物見曲輪

居城主・天野氏
犬居城・居城主である天野氏は、承久の乱(1221年)の後、山香庄に地頭として入り、以降犬居の地を中心に北遠地方を代表する在地領主となり、鎌倉時代には、幕府の御家人として活躍、南北朝時代には一族が北朝・南朝と分裂し争いが起こり、北朝方についた一族が後に勢力を大きくし、室町時代から戦国時代にかけて国人領主に成長するまでに至ります。
戦国時代には、今川氏の支配下にはいり、今川義元の忠実な家臣として、北遠の要として位置づけられていました。しかし永禄3(1560)年桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、本格的な徳川家康の遠江侵攻が始まり今川氏の手を離れ徳川に属することとなりますが、武田信玄の領国美濃と境を接していることもあり、信玄からの圧力と巧みな勧誘工作により信玄に寝返ってしまいます。これに激怒した徳川家康は犬居城を2回攻撃し、1度は徳川軍を後退させた天野氏でしたが、2回目は守り切れず甲斐に落ち、北遠の地には戻ってくることはない、という運命をたどります。
(看板資料より)

物見曲輪展望台からの眺め

本曲輪

東曲輪と空掘



2001年08月12日

一昨日の 遠江東部の城めぐり では汗だくになってしまって危うく風邪をひきそうになってしまったという失敗の経験を生かし、着替えを用意して朝3:30に出発しました。今回の目的地は二俣城です。ついでに犬居城と浜松城にも行ってきました。天気予報は曇り→雨でしたが強行しました。朝6:30からの犬居城址登山では雨でビショビショになってしまいましたが、その後はなんとか傘を使わずに済みました。出発が早かったのでお昼には切り上げて帰路につき15:30には帰ってきました。

県指定史跡 犬居城跡

犬居城は承久の乱(1221)の後、山香庄の地頭に補せられ、以降犬居の城を中心に北遠地方を代表する在地領主に成長した天野氏の居城である。
天野氏は、伊豆国田方郡天野郷を出身地とする。鎌倉時代、幕府の御家人として活躍するが、元弘3年(1333)、鎌倉討幕軍に加わり軍功を挙げている。南北朝時代になると一族が南朝、北朝それぞれの勢力に分かれて戦うなど、複雑な動きを展開したが、戦国時代には今川氏の配下として川根方面から天竜川あたりの地域に勢力を及ぼした。永禄3年(1560)、今川義元が桶狭間の戦いで倒れると徳川家康に属し、上洛を企てる武田信玄が北遠地方をうかがうと武田氏に従うことになった。
このような状況の中で、光明、篠ヶ嶺、樽山、勝坂などの各地に支城が整えられていったものと考えられる。天正2年(1574)徳川軍の包囲を受けたが、気田川増水のため退却する徳川軍を田能、大久保辺に追撃している。天正3年長篠の戦いで武田氏が大敗をすると、翌年再び徳川軍の攻撃を受け、ついに城を放棄して北遠の地を去っていった。
城跡は、行者山(250m)の頂きにある。山の南側は断崖絶壁で険阻となっており、北側と西側は比較的穏やかで攻撃を受けやすい。このような地勢を考慮して西側から東側にかけて物見曲輪、本曲輪、東曲輪などの諸曲輪が配され、空掘、土塁、掘切などが築かれている。現在、東曲輪周辺の空掘や掘切などの遺構がよく残っており、中世における代表的な山城として貴重である。
なお、山の南側麓の熱田平には天野氏の居館が築かれたと思われ、百首塚、的場が残っている。
(看板資料より)


とりあえず一番遠い犬居城から行くことにしました。途中天竜市までは雨は降っていなかったのですが犬居城についたらかなりの雨になっていました。今回は傘を持ってこなかったのでタオルを頭にかぶせて登ることにしました。6:30登山開始です。


登り始めて15分くらいで頂上に到着。雨はやまず、霧が立ち込めていました。途中の道はかなり上り坂が急でなおかつ雨で滑りやすくなっていて大変でした。案内板も柱が腐ってしまっていて倒れていました。もちろん私の他には誰もいませんでした。


本丸からの景色

本丸には展望台がある

 
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