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長野県下諏訪町

慈雲寺

2014年05月18日

白華山慈雲寺は正安2(1300)年、一山禅師の開山で信州触頭として重きをなした名刹である。梵鐘は応安元(1368)年諏訪下宮大祝金刺豊久によって造られ形、音銘ともにすぐれている。
楼門は安永8(1768)年大隈流の名匠村田長左エ門矩重の手に成るもの。天圭松は戦国時代当寺の住持天圭玄長禅師の植えたものと伝える銘木である。
(看板資料より)

この寺は天文6(1537)年正月23日に焼失したが、天桂玄長は武田信玄の叔父だったので、武田家に乞うて伽藍を再建した。そこで武田氏を中興開祖としている。
(長野県町村誌より)

中興開山は天桂玄長であるが、彼は武田信玄が私淑した住職であった。それゆえ、慈雲寺の再興には武田信玄の大きな支えがあった。
(信州の仏教寺院より)


海印寺高麗形創作灯篭

灯篭は神・仏に火をささげるという意味で本堂・塔など前正面に一基のみが古い形です。韓国で最も古寺である海印寺は、八万大蔵経の保存で有名である。その願堂庵を四角形大面取に創作したものである。日本で最も古い春日大社にある灯篭の一つ「柚ノ木形」の源流と思われるものである。
基礎の格狭間は飛鳥・奈良時代の手法を刻み蓮弁は、素弁の古い形式ですっきりと、竿は中節がないのが韓国形のすっきりと、火袋は、正面のみ四角窓で古式で、裏は円窓に復弁の蓮弁となり特に美しい形となっている。
笠はワラビ手のない薄手で軽やかで、上の宝珠は蓮のツボミの形となっている。
(看板資料より)


日根野高吉供養塔

日根野高吉は豊臣秀吉の部将で天正18年諏訪の領主になり高島城を築いた築城の名手である。慶長5年6月26日高島城に病んで没し、慈雲寺に葬られた。
その子吉明は関ヶ原戦後栃木県の壬生に移され、のち大分の国府に移されて二万石を領し、慶安2年父の50回忌に当って五輪塔をたてて供養した。諏訪にある五輪塔として、もっとも大きいものである。
(看板資料より)


慈雲寺本堂

慈雲寺は創建以来3回大火に遭っているが、文化3(1806)年の火災後の文化5(1808)年本堂、玄関、庫裏を再建した。棟梁は上諏訪湯の脇の上原市蔵正房で、初代立川和四郎富棟の直弟子として下社秋宮幣拝殿をはじめ富棟の造営した多くの寺社建築に加わっている。本堂は入母屋造りで周囲に板縁を回し、内陣には臨済宗特色の通し須弥壇が付けられ、室中と両脇間との境の中間には柱を立てず、内陣の欄間には梶の葉と武田菱の彫刻が付けられている。規模の大きさと全体に木太い建築である点が特色で、外観は質素であるが、内陣の彫刻に大工の特徴が現れ、江戸時代後期の臨済宗本堂の特色を示した建築である。
(看板資料より)


天桂松

天圭松は戦国時代当寺の住持天圭玄長禅師の植えたものと伝える銘木である。
(看板資料より)


慈雲寺型石灯呂

この石灯呂は、現在採石が禁止されている三銘石(奈良石・白川石・本御影石)の奈良石を、特別の許可を得て採石し使用しています。古来よりの技法であるノミギリ石ノミ・石頭(カナヅチ)による手彫りによる制作、型は石像美術の黄金期鎌倉時代の様式、例えば笠部のワラビ手と呼ばれる隅部には力強さを、下台・中台等の蓮弁や格座間は鎌倉初期の流麗さを表現しています。そして慈雲寺開山一山一寧国師7百遠年記念奉納の作として、国師遷化のおり後宇多上皇がその死を惜しみ呈した詩文の一節「慈雲坤維を覆う〜」より袈裟の文様を意匠化し火袋に陽刻し下台腰部には羯麿(4個1組の法具)を陽刻することにより開山国師への報恩感謝と四弘誓願成就を祈念しています。火上げ石には京都聖護院門跡本堂建て替えに伴い譲り受けた江戸時代初期の白川石の礎石です。
(看板資料より)

 



2008年12月30日

慈雲寺は諏訪大社下社春宮のすぐ近くにありました。参道には大きな木が立ち並んでいて立派でした。参道左側には灯篭や日根野高吉供養塔などがありました。日根野高吉供養塔は大きなものでまるで高野山奥の院のお墓のようでした。山門には赤い武田菱の家紋が入っている堤燈がありました。本堂右側には立派な松の木があり、左側には素晴らしい石庭がありました。

白華山慈雲寺は正安2(1300)年、一山禅師の開山で信州触頭として重きをなした名刹である。梵鐘は応安元(1368)年諏訪下宮大祝金刺豊久によって造られ形、音銘ともにすぐれている。
楼門は安永8(1768)年大隈流の名匠村田長左エ門矩重の手に成るもの。天圭松は戦国時代当寺の住持天圭玄長禅師の植えたものと伝える銘木である。
(看板資料より)

この寺は天文6(1537)年正月23日に焼失したが、天桂玄長は武田信玄の叔父だったので、武田家に乞うて伽藍を再建した。そこで武田氏を中興開祖としている。
(長野県町村誌より)

中興開山は天桂玄長であるが、彼は武田信玄が私淑した住職であった。それゆえ、慈雲寺の再興には武田信玄の大きな支えがあった。
(信州の仏教寺院より)


海印寺高麗形創作灯篭

灯篭は神・仏に火をささげるという意味で本堂・塔など前正面に一基のみが古い形です。韓国で最も古寺である海印寺は、八万大蔵経の保存で有名である。その願堂庵を四角形大面取に創作したものである。日本で最も古い春日大社にある灯篭の一つ「柚ノ木形」の源流と思われるものである。
基礎の格狭間は飛鳥・奈良時代の手法を刻み蓮弁は、素弁の古い形式ですっきりと、竿は中節がないのが韓国形のすっきりと、火袋は、正面のみ四角窓で古式で、裏は円窓に復弁の蓮弁となり特に美しい形となっている。
笠はワラビ手のない薄手で軽やかで、上の宝珠は蓮のツボミの形となっている。
(看板資料より)


日根野高吉供養塔

日根野高吉は豊臣秀吉の部将で天正18年諏訪の領主になり高島城を築いた築城の名手である。慶長5年6月26日高島城に病んで没し、慈雲寺に葬られた。
その子吉明は関ヶ原戦後栃木県の壬生に移され、のち大分の国府に移されて二万石を領し、慶安2年父の50回忌に当って五輪塔をたてて供養した。諏訪にある五輪塔として、もっとも大きいものである。
(看板資料より)


慈雲寺本堂

慈雲寺は創建以来3回大火に遭っているが、文化3(1806)年の火災後の文化5(1808)年本堂、玄関、庫裏を再建した。棟梁は上諏訪湯の脇の上原市蔵正房で、初代立川和四郎富棟の直弟子として下社秋宮幣拝殿をはじめ富棟の造営した多くの寺社建築に加わっている。本堂は入母屋造りで周囲に板縁を回し、内陣には臨済宗特色の通し須弥壇が付けられ、室中と両脇間との境の中間には柱を立てず、内陣の欄間には梶の葉と武田菱の彫刻が付けられている。規模の大きさと全体に木太い建築である点が特色で、外観は質素であるが、内陣の彫刻に大工の特徴が現れ、江戸時代後期の臨済宗本堂の特色を示した建築である。
(看板資料より)

庭園

 
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