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群馬県藤岡市

浄法寺城

2013年01月01日

神流川が多野郡の山地を脱する直前の谷地の川の両側にわたる地域に構えられた南北朝期の城である。従って城は埼玉・群馬両県にまたがっている。
観応3(正平7、1352)年、浄法寺左近大夫は白塩・高山・小林の諸将と共に足利尊氏方となり、新田義興の軍を破った。戦国の頃に浄法寺城主となった長井駿河守忠実・豊前守政実・右衛門信実の三代は左近大夫の子孫であろう。政実は武田信玄に従い、永禄13(1570)年、小幡信尚と共に信玄から助勢を得て武州8千貫を切り従え、3千貫与えられて武蔵に移り、信玄の死後高崎の島名城主となった。政実の跡を継いだ信実は武田勝頼滅亡後に去ったが、天正18(1590)年、北国勢に加わり、旧領浄法寺の兵をもって、藤田信吉と共に多比良城を攻略した。戦後その功績により旧地浄法寺を与えられたが、参勤交代の幕命に従わずして改易、慶長19(1614)年5月14日、播磨の配所で死んだ。
この城は武蔵金鑚御嶽城、上州三ツ山城などを堡塁とし、現在の浄法寺の場所を館とした地域城で、北は三名川を要害としていた。永禄の頃、芦田信守がいたのは三名川合流点に近い芦田川屋敷であろうか。
(日本城郭大系より)

 

 
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