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長野県佐久市

信玄の兜石

2014年05月03日

@臼田町の勝間に信玄の兜石と呼ばれている、高さ三尺(約1m)ばかりの三角形の石がある。天文(1532〜55)の頃、武田信玄が佐久に攻め入り、この地方の豪族と戦った時、ここを通りしばらく軍をとめて休息して、兜をかけた石だといわれている。その後誰言うとなく、この石についている苔を夜泣きするあかんぼの枕の下へ入れると、不思議に夜泣きがとまるというので、苔を取りに来る者が多かった。また、この石を動かすと祟るというので、畠のすみに昔のまま置かれてある。
(『佐久口碑伝説集』南佐久篇256頁)

A臼田町下勝間に高さ三尺(約1m)の立石があり、近くの人はこれを兜石と呼んでいる。戦国時代の頃、武田信玄が村上義清を攻めるため、甲州街道を進軍して「霧原」に着いた時、村人に地名を聞いた。居あわせた気軽な一老人がとっさに霧原を勝間原と変えて答えた。戦争に行く途中にこの地名を聞いた信玄は、前途を祝福されるものと喜んだ。彼はさっそく兜をとき、傍らの石の上に腰をかけてしばらく休息した。この石が今の兜石だという。先が尖って見えるから、兜を掛けたらしい石である。霧原はこの老人の気転から勝間と変わったといわれている。
(『佐久口碑伝説集』南佐久篇257頁、『信州の伝説』69頁)

 



2010年01月31日

@臼田町の勝間に信玄の兜石と呼ばれている、高さ三尺(約1m)ばかりの三角形の石がある。天文(1532〜55)の頃、武田信玄が佐久に攻め入り、この地方の豪族と戦った時、ここを通りしばらく軍をとめて休息して、兜をかけた石だといわれている。その後誰言うとなく、この石についている苔を夜泣きするあかんぼの枕の下へ入れると、不思議に夜泣きがとまるというので、苔を取りに来る者が多かった。また、この石を動かすと祟るというので、畠のすみに昔のまま置かれてある。
(『佐久口碑伝説集』南佐久篇256頁)

A臼田町下勝間に高さ三尺(約1m)の立石があり、近くの人はこれを兜石と呼んでいる。戦国時代の頃、武田信玄が村上義清を攻めるため、甲州街道を進軍して「霧原」に着いた時、村人に地名を聞いた。居あわせた気軽な一老人がとっさに霧原を勝間原と変えて答えた。戦争に行く途中にこの地名を聞いた信玄は、前途を祝福されるものと喜んだ。彼はさっそく兜をとき、傍らの石の上に腰をかけてしばらく休息した。この石が今の兜石だという。先が尖って見えるから、兜を掛けたらしい石である。霧原はこの老人の気転から勝間と変わったといわれている。
(『佐久口碑伝説集』南佐久篇257頁、『信州の伝説』69頁)

 

 
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