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長野県長野市

松代城(海津城)

2013年07月21日

史跡松代城跡
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸、三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。元和8(1622)年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。松代城は北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸、三の丸、花の丸などの曲輪を構えていました。
明治5(1872)年の廃城以降、建物はなくなったものの、昭和56(1981)年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。
(看板資料より)


北不明門

本丸の裏口(搦手)に位置する門です。太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成でした。18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから「水之手御門」と呼ばれることもありました。絵図資料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。
(看板資料より)


本丸御殿跡

本丸内には江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、享保2(1717)年の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっています。しかし度重なる水害の影響により、明和7(1770)年に城の南西に位置した花の丸に御殿を移しました。
(看板資料より)


太鼓門

太鼓門は本丸内では一番大きな門でした。本丸大手(正門)の出入口(虎口)は、桝形に石垣をまわし、二層の櫓門(太鼓門)と桝形門(橋詰門)の2つの門で構成しています。
このような形を桝形といい、本丸を厳重に守っていました。良好に残っていた門礎石をそのまま利用し、絵図面などから板葺で切妻屋根の姿を忠実に復元しました。
太鼓門の名は、時を告げる太鼓を備えていたことに由来したようです。
(看板資料より)


太鼓門前橋

太鼓門表門(橋詰門)の前には橋がかかっていました。
内堀の調査では、堀のなかから30本以上の折れた橋脚を発見しました。橋脚の形状や打ち込まれた層位の違いから、橋の掛けなおしが4回以上行われたことが分かりました。このことから災害の度に橋が崩落・破損したという当時の史料記載を裏付けました。発見した橋脚や江戸末期の絵図面をもとに前橋を忠実に復元しました。
(看板資料より)

石垣

松代城は、本丸の周囲や出入口などの重要な部分に石垣を用いました。大小さまざまな自然石を巧みに積み上げた、たいへん特徴的なものです。とくに本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工のぎじゅつの高さを物語っています。
石垣の修理工事では、可能な限りその特徴を活かし、明治以降の改変や消失したもの、構造的に不安定になっている箇所について、当時と同じ工法で積み直しました。
(看板資料より)

 



2004年05月22日

史跡松代城跡
松代城は、甲斐の武田信玄が越後の上杉謙信との「川中島の合戦」の際に、武田方の前進基地として築かれた海津城がその始まりといわれており、永禄3(1560)年頃に普請が完了したものと伝えられています。慶長5(1600)年関ヶ原の戦いの後、城主となった森忠政の頃、二の丸、三の丸を整備し、土塁を石垣に築きなおしたものと考えられています。元和8(1622)年に真田信之が上田より移封されて以降、明治の廃城までの約250年間、松代藩真田家10万石の居城となりました。松代城は北西側を流れる千曲川を自然の要害として造られた平城で、最奥部に本丸、南側の城下に向けて二の丸、三の丸、花の丸などの曲輪を構えていました。
明治5(1872)年の廃城以降、建物はなくなったものの、昭和56(1981)年に本丸を中心とした旧城郭域の一部が新御殿とともに国史跡に指定されています。
(看板資料より)


北不明門

本丸の裏口(搦手)に位置する門です。太鼓門と同様に櫓門と表門(枡形門)の2棟による構成でした。18世紀中頃に行われた千曲川の改修以前は、門が河川敷に接していたことから「水之手御門」と呼ばれることもありました。絵図資料をもとに、当時の門礎石をそのまま利用して忠実に復元しました。櫓門は石垣に渡らずに独立しており、中世的な様相を残した松代城の特徴的な門です。
(看板資料より)


城内には松代城ではなく海津城の碑があった。


本丸御殿跡

本丸内には江戸時代中頃まで政庁や藩主の住居のための御殿がありました。調査では建物礎石や井戸跡、焼けた土壁など、享保2(1717)年の火災で焼失した御殿の痕跡が多数見つかっています。しかし度重なる水害の影響により、明和7(1770)年に城の南西に位置した花の丸に御殿を移しました。
(看板資料より)

石垣
松代城は、本丸の周囲や出入口などの重要な部分に石垣を用いました。大小さまざまな自然石を巧みに積み上げた、たいへん特徴的なものです。とくに本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は松代城内でも古い近世初頭のものと言われており、その高さと勾配の美しさは、当時の石工のぎじゅつの高さを物語っています。
石垣の修理工事では、可能な限りその特徴を活かし、明治以降の改変や消失したもの、構造的に不安定になっている箇所について、当時と同じ工法で積み直しました。
(看板資料より)

海津城の完成を記念して真田宝物館にて川中島の戦いに関する特別展示が行われていました。

 


2003年08月15日

永禄4年の川中島の合戦の際に武田軍の最も重要な拠点となった城です。現在は松代城という名前に変わっており、更に「よみがえる松代城」として1995年度から2003年度までの間、史跡松代城跡附新御殿跡環境整備事業として復元工事中でした。お城が復元されるのは、まったくなくなってしまうよりはいいですが、松代城跡としてさぞかしきれいにできあがるであろうと考えると川中島合戦の海津城ではなく真田のふるさと松代城としての性格が色濃くなってしまうのではないかとひそかに危惧しております。

 

 
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