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長野県上田市

鐘かけの松

2014年09月
28日

天文19(1550)年、武田信玄が村上義清の山城だった戸石城を攻めた際、本陣近くにあった松の枝に鐘をかけて鳴らし、進軍や退却の合図にしたため、「鐘かけの松」と言われるようになった。
この松は三代目で平成4年5月に植樹したものです。
(看板資料より)

8月5日、先陣の長坂虎房が出陣し、10日には足軽衆も戦闘体制で進撃したために、相手方の和田城の兵が逃亡した。信玄も19日に長窪に着陣し、28日には戸石城に近い屋降(場所不明)に陣を構えた。29日の正午頃戦闘が開始され、9月3日に武田軍は城ぎわまで陣を寄せ、9日午後6時頃総攻撃をかけたが、戦果を上げることができず、再び膠着状態となった。
晦日、信玄はこのままでの戸石城攻略は無理だと判断して撤退のための軍議を開き、翌10月1日午前6時から撤退を開始した。
(笹本正治著 武田信玄より)

 



2012年03月
17日

天文19(1550)年、武田信玄が村上義清の山城だった戸石城を攻めた際、本陣近くにあった松の枝に鐘をかけて鳴らし、進軍や退却の合図にしたため、「鐘かけの松」と言われるようになった。
この松は三代目で平成4年5月に植樹したものです。
(看板資料より)

鐘かけの松からの戸石城

8月5日、先陣の長坂虎房が出陣し、10日には足軽衆も戦闘体制で進撃したために、相手方の和田城の兵が逃亡した。信玄も19日に長窪に着陣し、28日には戸石城に近い屋降(場所不明)に陣を構えた。29日の正午頃戦闘が開始され、9月3日に武田軍は城ぎわまで陣を寄せ、9日午後6時頃総攻撃をかけたが、戦果を上げることができず、再び膠着状態となった。
晦日、信玄はこのままでの戸石城攻略は無理だと判断して撤退のための軍議を開き、翌10月1日午前6時から撤退を開始した。
(笹本正治著 武田信玄より)

 

 
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