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新潟県上越市

春日山城

2014年08月24日

本丸

春日山城
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約600年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中を守る拠点であった。その後、謙信公の父為景公、謙信公、景勝公の三代にわたり普請に務め、現在見られるような大城郭になったと考えられている。春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1200mの総構え(通称監物堀)である。
関東管領として関東、北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。
(看板資料より)

南隣の天主台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれていたところです。標高180mの本丸からは、かつての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城や日本海が一望できます。
関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長2年の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わりません。関川の手前を手でかくして見てください。
(看板資料より)

史蹟春日山城址
頚城平野の西北に位置する春日山上にあって、上杉輝虎(謙信)の居城地であった。本丸を構え、二の丸、三の丸をその下に配し、土塁濠を重ねて比隣に勢威を示した。
頂上は蜂ヶ峰と称し、眺望に富み付近の属城を充分に監視することができた。
本丸跡の後方、一段低い所に大井戸があって夏でも水の枯れることがなく、その北方に毘沙門丸及び御花畑があった。また西方には鐘撞堂や景勝屋敷跡等があって、南方の二の丸、三の丸方面には家臣の屋敷跡があった。規模は極めて雄大である。
(看板資料より)

天守閣跡


井戸曲輪

廃城後400年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古絵図にもここだけに井戸の記号で示しており、古くから注目されていたことが分かる。
どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が働いて水が湧くとのことである。
なお、数十年前に井戸さらいが行なわれ、滑車や杓などが見つかっている。
(看板資料より)

油流

本丸の西斜面は人の侵入を拒んでいるような急斜面となっていて「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれません。
(看板資料より)


二の丸屋敷

本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように作られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられています。
古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。
(看板資料より)

二の丸跡


千貫門

春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門である。それはこの門が古くから知られていたことを物語っている。今でも門が立っていたと考えられる部分のみ、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。
三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切通しがある。じつはこれは空堀の底で、侵入者を空掘から急峻な崖下に落とそうとしたものであろう。
周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外を区画する重要な拠点であったことをうかがわせる。
(看板資料より)

塹濠跡

千貫門の内側に連続する2本の堀が造られていて、門の位置からは道のように見えます。
空掘は通常尾根を分断するように造られますが、ここでは堀の形に見せながらも、門から侵入した敵を沢に落とすように巧妙に仕組まれた道のように思われます。
(看板資料より)

空掘

ここは通称搦手、あるいは附内口で、春日山神社の郭をへて謙信の銅像の裏から登る道がここに通じています。それを断ち切るのがこの空掘で、平素は橋がかかっていました。
(看板資料より)


お屋敷

この下方に「お屋敷」と名づける大きな郭(60×110m)があります。城主の館跡です。お屋敷の上下に右近屋敷その他大小の郭があって「根小屋」を形作っています。その下に黒金門や蓮池があり、この口が府内口で、この神社のある郭への道が通じています。
(看板資料より)


毘沙門堂

この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約50cm)が安置されています。尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永2年の火災で傷みました。昭和3年に第15台上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、高村光雲先生が1年余を費やして修理いたしました。
その際先生は御分身を作り、尊像の欠け損じたのをおなかに入れて同5年3月に完成し、当市(当時春日村)に寄進されました。翌6年11月に、昔の堂跡にこの祠堂を建て奉安したのであります。
毘沙門天は悪魔を降ろす神です。謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、毘の字の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせました。毘沙門天は四天王のうち、北を守る多聞天でもありました。この尊像は多聞天のお姿です。公は王城の北方を守る意気をもっていたものと思われます。
(看板資料より)


護摩堂跡

謙信が出陣前に毘沙門堂にこもったことはよく知られていますが、戦勝や息災を祈祷したのが護摩堂です。護摩の修法は毘沙門天の信仰とともに謙信が真言密教を深く信仰していたことを如実に物語っています。
(看板資料より)

諏訪堂跡

不識院跡

景勝屋敷跡

「御館の乱」で勝利をおさめ、謙信公の跡目を相続した景勝公の屋敷と伝えられている。
景勝公は謙信公の姉仙桃院の子で、直江山城守兼継という知将を得て、豊臣秀吉の五大老の一人にまでなった。景勝屋敷跡とその周辺の屋敷跡は、総じて大規模で、尾根を巧みに利用して段を削出し、数段で一つの屋敷が形成されている。
春日山神社から谷愛宕にけての屋敷跡群が雛壇状に並んで造られているのとは対称的である。景勝屋敷を中心とする屋敷跡群が地形に逆らわず定形化していないのは、春日山城の古い階段での普請を示しているといえる。
(看板資料より)

上杉少弼入道宅跡


直江屋敷跡

上杉家の重臣直江家の屋敷と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が作られています。現在は遊歩道があって使われなくなっていますが、郭と郭をつなぐ古道も残っています。
直江家は上杉謙信の父為景の代から重臣として仕え、山城守兼続は謙信の跡目を継いだ景勝の家老として活躍したことがよく知られています。景勝が会津へ国替えになったときに同行し、米沢藩30万石の城主となったことでもその活躍がしのばれます。
(看板資料より)

三島郡与板城主直江大和守実綱(のち景綱)続いて信綱がここに住み、謙信の小姓であった樋口与六が、景勝時代に直江家を継いで山城守兼継と名乗りました。兼継は知勇抜群の名臣として知られています。景勝が会津百二十万石の領主となった際、兼継は米沢三十万石に封ぜられました。
(看板資料より)


柿崎和泉守屋敷跡

上杉謙信の重臣柿崎景家の屋敷跡と伝えられる春日山城で最も大きな郭の一つです。また城内の山地で唯一ハンノキが自生する場所で、植生から水分を多量に含む土地であったことが分かります。ここに池、もしくは水堀があったことが考えられます。池であったとすれば、春日山城で唯一庭園を合わせ持った郭の景観が想像されます。
屋敷へは、大手道から木橋をかけた南側の空掘を渡って入るように古絵図に描かれています。また郭の東側を通り、景勝屋敷へ登る古道も残っています。
(看板資料より)




2000年7月20日

上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約600年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中を守る拠点であった。その後、謙信公の父為景公、謙信公、景勝公の三代にわたり普請に務め、現在見られるような大城郭になったと考えられている。春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1200mの総構え(通称監物堀)である。
関東管領として関東、北陸に覇を唱えた戦国大名の居城にふさわしい大城郭といえる。
(看板資料より)


千貫門

春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門である。それはこの門が古くから知られていたことを物語っている。今でも門が立っていたと考えられる部分のみ、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。
三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思われる切通しがある。じつはこれは空堀の底で、侵入者を空掘から急峻な崖下に落とそうとしたものであろう。
周到に計画された普請は、本丸と千貫門の外を区画する重要な拠点であったことをうかがわせる。
(看板資料より)


直江屋敷跡

上杉家の重臣直江家の屋敷と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が作られています。現在は遊歩道があって使われなくなっていますが、郭と郭をつなぐ古道も残っています。
直江家は上杉謙信の父為景の代から重臣として仕え、山城守兼続は謙信の跡目を継いだ景勝の家老として活躍したことがよく知られています。景勝が会津へ国替えになったときに同行し、米沢藩30万石の城主となったことでもその活躍がしのばれます。
(看板資料より)


毘沙門堂

この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約50cm)が安置されています。尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永2年の火災で傷みました。昭和3年に第15台上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、高村光雲先生が1年余を費やして修理いたしました。
その際先生は御分身を作り、尊像の欠け損じたのをおなかに入れて同5年3月に完成し、当市(当時春日村)に寄進されました。翌6年11月に、昔の堂跡にこの祠堂を建て奉安したのであります。
毘沙門天は悪魔を降ろす神です。謙信公は自らの軍を降魔の軍とみなし、毘の字の旗を陣頭にかざし、また事あるときはこの堂前で諸将に誓を立てさせました。毘沙門天は四天王のうち、北を守る多聞天でもありました。この尊像は多聞天のお姿です。公は王城の北方を守る意気をもっていたものと思われます。
(看板資料より)


護摩堂跡

謙信が出陣前に毘沙門堂にこもったことはよく知られていますが、戦勝や息災を祈祷したのが護摩堂です。護摩の修法は毘沙門天の信仰とともに謙信が真言密教を深く信仰していたことを如実に物語っています。
(看板資料より)


本丸

南隣の天主台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれていたところです。標高180mの本丸からは、かつての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城や日本海が一望できます。
関川右岸に広がる、林に囲まれた村落が点在する風景は、慶長2年の「越後国絵図」に描かれた中世の景観とほとんど変わりません。関川の手前を手でかくして見てください。
(看板資料より)


井戸曲輪

廃城後400年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古絵図にもここだけに井戸の記号で示しており、古くから注目されていたことが分かる。
どのようにして、水が湧く地点を調べたか定かではないが、地質学的には、西方の山々と礫層でつながっていて、サイフォンの原理が働いて水が湧くとのことである。
なお、数十年前に井戸さらいが行なわれ、滑車や杓などが見つかっている。
(看板資料より)


油流し

本丸の西斜面は人の侵入を拒んでいるような急斜面となっていて「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれません。(看板資料より)


二の丸屋敷

本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように作られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられています。
古絵図には、「御二階」「台所」と記されたものもあり、現在も笹井戸といわれる井戸跡が残っていることも、当時の二の丸における生活を知る手掛かりとなっています。
(看板資料より)


上杉三郎景虎屋敷

上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことが分かります。また、美男として伝えられています。
跡目争いでは越後国外からの人質であったためか次第に援助の武将も離れ、最後は自害して一生を終えました。小説「炎の蜃気楼」で現代に蘇った景虎が美しい男性として描かれて人気を博しています。近年、春日山城で最も賑わいを見せている郭の一つです。(看板資料より)

 

 
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