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静岡県浜松市

勝坂城

2012年02月12日

勝坂城砦は、気田川に囲繞され、西南嶺は鹿ヶ鼻から峰伝いに信州街道に接続しており龍頭山、秋葉山を経て犬居本城と往来した天野氏が、軍略上最も頼みとした堅固な砦であった。
その起源は定かではないが、元弘元(1331)年、初代犬居城主天野経顕が地頭職として鎌倉幕府から派遣されて後、犬居と奥山(水窪)の間にあって何等かの重要な関係をもっていたものと思われる。
天正4(1576)年7月、徳川の軍勢が大挙しての攻略に最後の砦として戦ったが、武運つたなく甲斐の武田方に逃れた。
(看板資料より)

勝坂城址は、犬居から気田川沿いに北上した、春野町の最深部、勝坂部落内に所在する。城址の位置は竜頭山の北方山稜上から勝坂に向かって延びる支尾根が標高890mの入地山から分かれた尾根の先端で、東から南へ気田川、西から南へ入地沢によってY字状地形を示す猪ヶ鼻とするのが妥当である。
徳川家康は犬居城攻撃に先立ち天正3(1575)年から武田方の二俣・光明両城を落とし、天野勢の南への浸出口を封鎖し、続いて川根方面への出口にあたる樽山城を井川の安部大蔵定吉父子に占拠させたのち、同4年7月、犬居城攻めを再開した。
徳川軍によって完全に包囲された天野宮内右衛門景貫は、未完成の犬居城を捨てて最深地の勝坂城に退去した。
勝坂城に籠もった天野軍は、同部落南境の関門「塩坂」で徳川勢を防いだが、大久保氏が石ヶ嶺(塩坂背後の高地か)に登り、ここから攻撃に転じたため、塩坂と勝坂を開けて(勝坂城)猪ヶ鼻に籠もった。そして天野氏が勝坂城に押し詰められた身動きできなくなった時点で犬居地方は完全に徳川氏の支配下に落ちた。そしてそれ以降天正9年まで大久保氏の管理下に置かれた。
(日本城郭大系より)

 

 
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