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静岡県牧之原市

勝間田城

2012年02月19日

勝間田城は後に、今川氏や武田氏により改築されたと考えられており、特に多くは武田氏によるものと考えられ武田式の手法、及び規模が各所で見出される。この勝間田城は全域に特色ある明瞭な遺構を残し、種々の時代の築城法を研究できる貴重な文化財である。
(日本城郭大系より)

本曲輪

本曲輪の土塁

勝間田氏はこの地方を本拠地とする豪族で、勝間田平三成長は鎌倉幕府の御家人となった。元弘の乱には河内の赤坂城、千早城の攻防に一族が攻撃側と守備側の両陣営に分かれて参戦していることが記録にみえる。
室町期に入り、将軍の直属軍として応永の乱や永享の乱に活躍し、応仁の乱が起こるや今川氏と対立し、今川義忠の猛攻の前に文明8年ついに落城。一族は四散した。一説には現在の御殿場市周辺に移り住んだと伝えられている。
応永年間に勝間田定長が築城したとされているこの城は、中世の代表的な山城で、牧の原台地に連なる尾根を巧みに利用して曲輪、土塁、堀切が設けられ、東部の尾根には他の城跡には例を見ない鋸状の堀切が見事に残っている。
文明8年の落城後、この城が再び使われたとする記録は見当たらないが、遺構からはその後に手が加えられた形跡が認められる。
(看板資料より)

出曲輪

二の曲輪と土塁

勝間田氏について
勝間田氏は、平安末期から室町中期まで約340年間この地方を領有した豪族である。勝間田氏が史上に登場してくるのは「保元物語」からである。
「保元物語上」に
義朝甲の緒をしめ、即うちいでけるが、義朝馬をひかえて紅の扇を開つかいて申されけるは……相随ふ輩は誰ぞ……遠江国には横地、勝田、井八郎、す駿河国には…とあり、時は保元元(1156)年のことである。
平治の乱後、「吾妻鏡」に勝田平三郎成長というものがでてくる。成長は治承5(1181)年壬2月、安田義定の招集に応じて史上に現れ鎌倉幕府の御家人やまた玄蕃助などにもなり、以来建久6(1195)年まで15年間活躍した。
その後健保4(1216)年源実朝が送った宋使節団の一行に勝田兵庫頭が参加している。
建長2(1250)年、建物造営のため京に供出される材木等の分担目録の中に勝田兵庫助の名が見える。
鎌倉末期に参議冷泉為相の門下となった勝田長清は、17,300余首の和歌を収録した「夫木和歌抄」を編纂している。
南北朝期に入ると、勝間田氏は再び史上に現れる。元弘元(1331)年足利高(尊)氏に従った勝間田彦太郎入道や赤坂城の攻防で有名な楠木正成に従った勝田左エ門尉直幸などが見え、南朝方、北朝方の双方に分かれて活躍していたことが分かる。
正平3(1348)年足利高(尊)氏は、諏訪神社の笠懸の神事を行い射手に勝田能登守佐長、勝田二郎丞長直などがこれに参加している。
勝田氏は、足利義満の代になると次第に中央に進出し奉公衆となり、文中元(1372)年勝田三河守太郎や勝田修理亮は、将軍の近習となり幕府の役人として活躍した。
室町初期の応永の乱で今川泰範の軍に加わった勝間田遠江守は、丹波の追分の合戦で討ち死にしました。また、永享の乱で活躍した勝田弾正も箱根で討ち死にしている。
応仁の乱で全国的に動乱化した中で、国人として生き残る道を探していた勝間田修理亮は、横地氏と共に今川義忠軍と戦い敗れ、この結果勝間田一族は四散した。
その後、明応5(1496)年勝間田播磨守が志戸呂の城主鶴見因幡守と共に城飼郡松葉城を攻め落としたが、これより後、勝間田一族は史上から姿を消してしまう。
このように340年間もの長きにわたって当地を根拠地として活躍した勝間田氏は、中世の末、当地から姿を消してしまうが、敗亡当時の城と思われる勝間田、湯日、穴ヶ谷、滝堺、飯田などの城跡のほか、清浄寺の裏手の供養塔や坂口の石雲院、中の長興寺また桃原の瑞昌院などには今も勝間田氏の位牌が残されている。
(看板資料より)

二の曲輪と土塁

礎石建物

自然石の平坦面を表にして据え、これに柱を立てた建物。縄文時代以来の竪穴住居や堀立柱建物とは違い、寺院や宮殿など長年月の保存を必要とするものに限って礎石の上に柱を立てる建築法が用いられた。
二ノ曲輪には、11棟の堀立柱建物跡と1棟の礎石建物跡が確認されています。中世の山城で礎石を持った建物が確認されたのは珍しく、当時どのような用途に使われたのか興味がありますが、礎石を使った理由として、床張りで重量物たとえば、兵糧米などを収納していたことが考えられます。この建物の回りには、溝が巡り、出土物としては、擂鉢、青磁、白磁、染付、天目茶碗など種類・内容とも豊富な食器が発見されています。
この建物は勝間田城の兵糧庫または貯蔵庫等の用途に使われ、城の中でもたいへん重要な建物だったと考えられます。
(看板資料)より

掘切



2001年10月07日

ここでは城への登り坂の入り口に駐車場があって、車はここに止めて歩くこと! 上には車を止める所はない!という注意書きがあります。素直な我々は麓の駐車場に車を止めおいて舗装されたけっこう急な坂道を登り始めたのでした。がんばれば上に車を止めておくことができるかもしれませんが台数が多くなってきたらちょっと難しいでしょう。
舗装道路から山の道に変わると突然薄暗くなってしまいますが、ちょっと歩くと再び明るいところに出てくることができます。結構ちゃんと整備されていてびっくりしました。一旦広いとこところに出るとほとんど木が生えていないので周囲を見渡すことができます。更に奥に進むと本丸と見張り台があり、更に奥にも道があるのですが行かないほうがいいでしょう。そういう我々は行ってしまったのです。しばらくは平坦な道だったのですがそのうち上り坂になってしまいます。ひたすら登り続けると明るいところに出ることができるのですが、これがなんと茶畑なんです。結局引き返してくるしかないのです。そして駐車場まで戻ってきたのですがズボンや靴にはなぞの植物がこびりついていて、どうしてもこれを取り去ることができません。ズボンは何とかしたのですが、カメラを入れていた入れ物の方はまったく取れない状態。しかたなくカメラの入れ物は捨てることにしました。
靴紐にも謎の植物がくっついていたので帰り道では靴紐の紐を外したまま下りてきたのですが駐車場まで来て無くなっていることが分かり、もう一度歩いて登るのはつらかったので車で探しに行き見つけることができました。

 

見張り台

見張り台からの風景

 

 
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