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長野県長野市

葛山城

2016年05月01日

葛山城は善光寺の西北に位置する葛山の山頂に構築された複合的な山城で標高800mを超える高所にあり、東・南の両面、とりわけ南側は急峻な地形を呈している。南の麓直下を流れる裾花川を挟んで旭山城と相対し、西方は尾根伝いに戸隠・飯縄両神社と山村の諸郷と結ばれている。北方も尾根伝いに笹峰集落から大峰城・髻山城などの支城と善光寺平北部の農村諸郷と結びついている。
一般に葛山城は葛山七郷を支配した落合氏の築城とされている。しかし中世後期の山村土豪が800mを超える高所に山城を築く必要性も、その能力もまず考えられない。むしろ『歴代古案』から上杉謙信による築城が考えられ、その築城年代が判明する数少ない山城の一つといえよう。すなわち、二回目の川中島合戦は弘治元年7月、上杉謙信の横山城着陣で始まった。その際、上杉謙信は武田信玄との決戦に向けて旭山城の機能を封殺するため、新たに葛山城を構築したものであることがわかる。
事実、葛山城構築の結果、戦闘は長期戦となって今川義元の仲介で和議が結ばれ、旭山城は破却された。上杉氏は葛山城構築によって旭山城の機能を封殺し、武田氏の勢力を水内郡から高井・埴科両郡の郡境まで退去させることに成功したのである。従って水内郡進出を実現するために武田方は葛山城攻略を不可避の課題とせざるをえなくなった。そこで武田信玄は弘治3年2月15日というまだ雪が残っている時期を選んで葛山城を急襲し、落城に成功している。守備兵は落合方家中、小田切駿河守、など近郷の土豪層や「葛山衆」といわれる地侍層であった。越後の軍勢はもちろん、戸隠・飯縄両神社の宗教勢力も雪中のため行動が制約される時期に、西・北両方面からの支援を断たれた葛山城は極めて防御しにくいという構造上の欠陥をついた奇襲作戦が成功したのである。
葛山城落城の結果、上杉方の島津氏も大倉城に撤退した。武田方は飯縄神社領を葛山衆の知行として安堵して味方に引き入れ、葛山領内に御料所を設置し、長沼城の管理下に置くなど、その支配を再編成している。
(日本城郭体系より)

南側の正面に旭山城を望む本郭は約35m×約20mの方形の単郭で、それを中心に東・西両翼に堀切を郭群が配置され、北方に続く細い尾根にも数多くの小段郭と土塁・堀切が構築されている。
東翼の郭群は大堀切と土塁を挟んで東方に向けて帯状の堀切が九条にも渡って縦に並んでいる。この竪堀列の直下には旭山・静松寺方面からの城山道が本郭に向かっているが、東南方面から侵入する敵に対して側面上段から攻撃する武者隠しの防備となっている。
西翼の郭群は、二本の大堀切と土塁を挟んで梯郭式の四つの郭群があり、北側には三段の腰郭が配され西方の尾根から侵入する敵を防御している。
北尾根の郭群は、長く細い尾根に数多くの小段郭と五つの小堀切とが配置されているだけである。
当城の縄張りの特徴は、築城の目的であった旭山城からの唯一の進入路である南側が、急峻な地形と竪堀列・帯郭など比較的複雑な防御施設とで堅固であるのに対して、西・北方面は尾根続きで郭・堀切・土塁による防御施設が著しく劣っているとういうことである。その意味で、西・北両方面からの支援を受けて南に向かう攻撃型の城としては極めて機能的であるが、逆に支援を断たれて守勢に回った時は防御しにくい縄張りとといえよう。
(日本城郭体系より)

北方から見た葛山城

この山城は、芋井地区の地侍、葛山衆の域で、城主は落合氏であった。川中島の戦の2回目の対陣の時、上杉謙信(当時は長尾景虎)が、旭山城に対する付城として整備、拡大したものであろう。弘治3(1557)年2月15日(太陽暦3月26日)武田の大軍に攻め落とされ、たくさんの城兵が戦死した。葛山衆の多くは武田に降伏、のち上杉の家臣となって米沢に移住した。
本丸跡は山頂にあり、東西34メートル、南北23メートル、その東は斥候場と称せられ、六条の空掘がある。北は本丸直下の二の丸に続き、蔵屋敷と呼ばれる郭(曲輪)があり、炭化した米等が出土する。この方面の郭は25メートルに及ぶ。また本丸の西方にも24の郭があり、きわめて巨大な城跡である。本丸の東北の谷は姫谷と呼ばれ、落城の時、女性たちが身を投げた所といわれる。また、この城は水に乏しく米を水に見せかけて敵の目をあざむいたという。いわゆる米山城伝説が伝えられている。
(看板資料より)


北尾根から本郭

北尾根の堀切

葛山城主落合備中守は、村上義清に従い越後の上杉謙信に属していた。城は上杉方の重要な前進基地であった。一方北信濃を掌中に収めようとする甲斐の武田信玄は、弘治3(1557)年2月(今の3月)、越後はまだ雪が深く上杉軍が出陣できない時期を見はからい、部下の馬場美濃守に命じ1万7千余人の大軍でこの城を攻撃した。城は高い崖の上にあり、堅固な防塁を備えており、落合備中守も勇猛にみずから進んでよく防いでいたので武田勢もやや攻めあぐむ形であった。
しかし城は水が不自由であった。城兵は敵の目にふれる崖から米を落として水は充分にあるようみせかけた。武田方は葛山の中腹にある静松寺の僧を責め城を攻める方法を問い、水利の不便を知ると水を断ち、火攻めにした。春先の風にあおられた火の勢いは山を包み、防塁は炎の中に崩れ落ちた。城兵必死の抗戦もむなしく備中守は奮戦して討死し、2月15日ついに落城した。
逃げ場を失った多くの女たちは峰の上から身を投げて死んだ。姫谷(裏の谷)と呼ばれる谷底からは、のちの世まで女の哀しい泣き声が聞かれたと里人は語り伝えている。
本丸跡には城主の嘆きを語る祠が安置され今でも周囲から焼米が掘り出されるという。
春、山頂の城跡に立てば里に遅れて散る山桜の一片に、戦国の世のならいとはいえ、滅びる者の哀れさが胸にせまってくる。
(看板資料より)


西翼の堀切

西翼の堀切


本郭から東翼へ向かう際、堀切を降りる

東翼の堀切

東翼の堀切

 



2004年05月22日

この山城は、芋井地区の地侍、葛山衆の域で、城主は落合氏であった。川中島の戦の2回目の対陣の時、上杉謙信(当時は長尾景虎)が、旭山城に対する付城として整備、拡大したものであろう。弘治3(1557)年2月15日(太陽暦3月26日)武田の大軍に攻め落とされ、たくさんの城兵が戦死した。葛山衆の多くは武田に降伏、のち上杉の家臣となって米沢に移住した。
本丸跡は山頂にあり、東西34メートル、南北23メートル、その東は斥候場と称せられ、六条の空掘がある。北は本丸直下の二の丸に続き、蔵屋敷と呼ばれる郭(曲輪)があり、炭化した米等が出土する。この方面の郭は25メートルに及ぶ。また本丸の西方にも24の郭があり、きわめて巨大な城跡である。本丸の東北の谷は姫谷と呼ばれ、落城の時、女性たちが身を投げた所といわれる。また、この城は水に乏しく米を水に見せかけて敵の目をあざむいたという。いわゆる米山城伝説が伝えられている。
(看板資料より)

本丸跡に安置されている祠

葛山城主落合備中守は、村上義清に従い越後の上杉謙信に属していた。城は上杉方の重要な前進基地であった。一方北信濃を掌中に収めようとする甲斐の武田信玄は、弘治3(1557)年2月(今の3月)、越後はまだ雪が深く上杉軍が出陣できない時期を見はからい、部下の馬場美濃守に命じ1万7千余人の大軍でこの城を攻撃した。城は高い崖の上にあり、堅固な防塁を備えており、落合備中守も勇猛にみずから進んでよく防いでいたので武田勢もやや攻めあぐむ形であった。
しかし城は水が不自由であった。城兵は敵の目にふれる崖から米を落として水は充分にあるようみせかけた。武田方は葛山の中腹にある静松寺の僧を責め城を攻める方法を問い、水利の不便を知ると水を断ち、火攻めにした。春先の風にあおられた火の勢いは山を包み、防塁は炎の中に崩れ落ちた。城兵必死の抗戦もむなしく備中守は奮戦して討死し、2月15日ついに落城した。
逃げ場を失った多くの女たちは峰の上から身を投げて死んだ。姫谷(裏の谷)と呼ばれる谷底からは、のちの世まで女の哀しい泣き声が聞かれたと里人は語り伝えている。
本丸跡には城主の嘆きを語る祠が安置され今でも周囲から焼米が掘り出されるという。
春、山頂の城跡に立てば里に遅れて散る山桜の一片に、戦国の世のならいとはいえ、滅びる者の哀れさが胸にせまってくる。
(看板資料より)


麓にあった石碑で「水神」と書かれていた。付近には井戸跡のようなものがあった。

 

 
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