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静岡県裾野市

葛山城

2014年01月18日

葛山城は鎌倉・室町・戦国期を通じて、関東一帯に勢力を持った葛山氏の本拠地である。
この地には葛山氏が平時居住した館跡と、戦闘に備えて築城した城跡があり、中世城郭の形態を明確に知ることができる数少ない貴重な史跡である。
城の構造は主郭(本丸)、二の丸、東曲輪、西曲輪、大手曲輪と、その他の小曲輪群、掘切からなり、山頂部を階段状に平に削って主郭を中央に設け、左右に曲輪を配している並郭式の山城である。
葛山氏は藤原鎌足の流れをくむ、藤原道隆の伊周を祖とし、惟康の次男親康が大森に住んでいたので大森氏を名乗り、惟康の三男惟兼が葛山に住んでいたので葛山氏を名乗ったとされる。
戦国期葛山氏は、氏堯、氏広、氏元と三代続き、天文初年頃(1532)氏広・氏元は駿府で公家と交流し歌を詠んだことが、当時今川氏と関係の深かった冷泉為和の歌集「為和卿集」にその様子をうかがい知ることができる。
また、墓所の玉垣と門扉は江戸時代末期のもので、門扉んみは丸に武田菱が刻まれている。葛山氏の墓に武田の紋があるのは不自然であるが、葛山氏の最後の領主は武田信玄の六男信貞とされ、武田氏滅亡の天正10(1582)年小山田信茂とともに甲斐善光寺で最後を迎えることになり、法号陽春院瑞香浄英という。その供養の意味をこめて造ったものと思われる。
(看板資料より)

東の掘切(二号掘)

帯曲輪

本丸

西の掘切

東の掘切(一号掘)

東曲輪

大手曲輪

葛山氏墓所



2003年06月01日

葛山城は鎌倉、室町、戦国期を通じて東駿一帯に勢力を振った葛山氏の本拠地である。この地には葛山氏が平時居住した館跡と戦闘に備えて築造した城跡があり中世城郭の形態を明確に知ることができる数少ない貴重な史跡として国の重要文化財に匹敵するといわれている。
城の構造は主郭(本丸)、二の丸、東曲輪、西曲輪、大手曲輪と、その他の小曲輪群、掘切、縦堀、水堀等からなり、山頂部を階段式に削平して、主部を中央に設け、その左右に曲輪を配している並郭式の山城である。
戦国期葛山氏は、氏堯、氏広、氏元と三代続き、大永5年以降永禄12年までに発給した文書は52通の多くにわたっている。
天文初年頃、葛山中務小輔氏広や葛山八郎氏元が駿府で公家と交流し歌を詠んだことは「為和郷集」によりうかがえる。
(看板資料より)

葛山氏は東駿一帯に威をふるい、今川に属しつつも甲斐や相模との外交を行っていた。信玄が駿河に攻め込んだときは今川方の武将として参陣した。しかし既に武田方に内応しており戦うことなく撤退している。そのため武田軍がこの城を攻めたことは無いはず。その後謀反の疑いで信玄に誅されたといわれているが真相は分かっていない。葛山城はかなり規模が大きく、本丸、二の丸、帯曲輪のほかにも多くの堀が残されている。


葛山館址
葛山氏館跡は、中世豪族屋敷の典型的な遺構として重要な価値を持つものである。その起源は、鎌倉期までさかのぼるとされる単濠単郭式の方形館である。
館は、東西100メートル南北100メートルで1万平方メートルの規模を持ち、井戸が2基あった。土塁は基底幅7メートル、馬踏3メートル、高さ4メートル、水濠幅7メートルで東西南北の地形によって多少異なるが上幅は2メートルである。
館の大手門跡は東北付近とされているが、北東の方位は鬼門とされているので果たしてそうであろうか。西側の2ヶ所のうち北寄りの喰違いの形状を見せるところが大手口であろうか。
館の西側には葛山氏の四天王と伝えられる重臣、半田氏荻田氏の屋敷が接続して連なっている。半田屋敷と葛山氏館との間にかつて掘が存在したのか、また半田荻田両氏の屋敷の境はどうなっていたのであろうか。もし堀がそれぞれに巡っていたとするなら複濠複郭式の館となり、室町戦国期に発達した形態となるのである。
(看板資料より)


葛山氏墓所

 
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