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群馬県沼田市

正覚寺

2016年08月13日

大蓮院殿の墓

真田初代沼田城主信之(幸)の夫人である大蓮院殿は、徳川家の重臣本田忠勝の娘で名は小松姫又はいねといった。家康は小松姫を養女として天正17(1589)年に信之に嫁がせた。翌年7月信之は沼田城主となり、慶長5(1600)年の関ヶ原の役において徳川方に従い、東軍に付くことになった。敵味方に別れた信之の父昌幸、弟信繁(幸村)が佐野犬伏から上田に帰る途次に沼田城を訪れた際、入城を拒んだ大蓮院殿は女丈夫とうたわれた。元和6(1620)年に病み、2月に療養のため江戸から草津に来る途中の同月24日に武蔵国鴻巣で没した。享年48歳。同所で火葬、分骨して同所勝願寺、沼田の正覚寺、上田の芳泉寺にそれぞれ葬られた。法名は、大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。
墓は総丈271cmの宝篋印塔で、塔身から基礎上段の正面に「阿弥陀三尊(梵字)大蓮院殿」、右側面に「施主敬白」、左側面に「英誉皓月」、後面に「元和6年庚申 ニ月廿四日」の刻銘がある。書体は軟筆楷書だが、形が小さく彫りも浅い。塔の形態は江戸時代初期の宝篋印塔の特徴をよく表している。相輪の上部と中間の蓮華は細かく、屋蓋の彫りは強く、塔身、基礎は壮重な形で安定した芝付は全体の重量感を一段と盛り上げている。
(看板資料より)

 



2003年09月27日

正覚寺山門

本山門は、入母屋造平入、銅瓦葺の一間一戸の四脚門で、平面規模は正面3.373m、側面3.370mである。正面に千鳥破風を付け、正面を向唐破風とする。柱は円柱とし、出組を置く。軒は二軒繁垂木、妻飾は虹梁彫刻充填とする。
万延元(1860)年建造と伝えられ、建物全体が欅の素木造で、虹梁の唐草絵様・木鼻・台輪や虹梁上部・妻飾などに見事な彫刻が施されている。彫刻は新田郡山之神村(現新田郡薮塚本町山之神)の豊琳斎(岸亦八)である。建築技法や彫刻に、江戸時代後期の特徴を良くとどめている。
(看板資料より)


大蓮院殿の墓

真田初代沼田城主信之(幸)の夫人である大蓮院殿は、徳川家の重臣本田忠勝の娘で名は小松姫又はいねといった。家康は小松姫を養女として天正17(1589)年に信之に嫁がせた。翌年7月信之は沼田城主となり、慶長5(1600)年の関ヶ原の役において徳川方に従い、東軍に付くことになった。敵味方に別れた信之の父昌幸、弟信繁(幸村)が佐野犬伏から上田に帰る途次に沼田城を訪れた際、入城を拒んだ大蓮院殿は女丈夫とうたわれた。元和6(1620)年に病み、2月に療養のため江戸から草津に来る途中の同月24日に武蔵国鴻巣で没した。享年48歳。同所で火葬、分骨して同所勝願寺、沼田の正覚寺、上田の芳泉寺にそれぞれ葬られた。法名は、大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。
墓は総丈271cmの宝篋印塔で、塔身から基礎上段の正面に「阿弥陀三尊(梵字)大蓮院殿」、右側面に「施主敬白」、左側面に「英誉皓月」、後面に「元和6年庚申 ニ月廿四日」の刻銘がある。書体は軟筆楷書だが、形が小さく彫りも浅い。塔の形態は江戸時代初期の宝篋印塔の特徴をよく表している。相輪の上部と中間の蓮華は細かく、屋蓋の彫りは強く、塔身、基礎は壮重な形で安定した芝付は全体の重量感を一段と盛り上げている。
(看板資料より)

沼田駅前の駐在所で正覚寺の場所を聞いたのですが、いつもは車で乗り入れることができるのですが、今日は年に一度のお祭りだそうで、車を止める場所やそこからの行き方を丁寧に教えてくれました。正覚寺への参道?はお祭りで屋台がたくさん出店しており、私も大判焼きを食べました。大蓮院殿の墓は墓域のちょうど中央に位置しており、お寺の方に場所を聞いて確認することができました。

 

 
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