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長野県小諸市

小諸城


2015年05月03日

三の門

重要文化財 小諸城三の門(平成5年12月9日国指定)
小諸城は慶長元和年間(関ヶ原役前後)にわたって時の城主仙石氏が築城しました。三の門も大手門と同様に一連の造営の中で創建されたものです。
しかし寛保2年(1742年)小諸御城下を襲った大洪水により三の門は流失し約20年後の明和年代に再建されて現在に至っています。
寄棟造、桟瓦葺の櫓門で、1階は桁行3間、北脇に潜戸を構え、隅金具、八双金具等が施してあります。
2階は西側に袖塀を設け矢狭間、鉄砲狭間が城郭の面影を残しています。
桁行5間、梁間2間で内部は住宅風の1室になっています。
大手門とともに小諸城の貴重な建造物として国の重要文化財指定を受けています。
(看板資料より)


二の門跡

小諸城の沿革と懐古園
小諸城の起りは、平安末期から鎌倉時代にかけて源平盛衰記や平家物語に登場する木曽義仲の武将として名をとどろかせた小室太郎光兼が現城址の東側に館を築きました。その後大井光忠が小室氏をおさえて鍋蓋城を築城、さらに乙女坂城(白鶴城)とも云う現在の二の丸跡を構えたが、武田信玄の攻略により落城。信玄はこの地が重要であることから山本勘介と馬場信房に命じて築城したのが現在の小諸城跡で酔月城と名付けました。さらにその後豊臣領となって仙石秀久が城主になり、二の丸、黒門(一の門)、大手門(四の門)を建てて現在の小諸城が完成したのであります。
この城の堀は、浅間山の火山灰層で水を用いずに崩れやすい断崖が堅固な防塞になっております。また(穴城)城下町より低いところに城があるので、そのように呼ばれ全国でも1、2を数える珍しい城址といわれています。
明治2年の廃藩置県で役割を終え、明治13年に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになりました。子諸なる古城のほとり雲白く遊子かなしむ…と島崎藤村に詠われた懐古園は、11の丘と12の谷からなる国際観光公園であります。園内には、徴古館、藤村記念館、郷土博物館、小山敬三美術館、動物園等の諸施設があります。
(看板資料より)


二の丸跡

旧白鶴城という。徳川秀忠が関ヶ原合戦に赴く際逗留したところ。
(石柱の文章より)


鶯石

城主の通行や祝いごとのあるたびに「うぐいす」の鳴声をたてたといわれる。
(石柱の文章より)


南丸跡


黒門橋


黒門跡


お駕籠台跡


本丸跡

小諸は東が浅間山麓の丘陵に連なり、西を千曲川が流れ、さらに南北は絶壁となっている天然の要害地である。
小諸に最初の城を築いたのは、長享元(1487)年で、足利氏に属する大井光忠が宇当坂に築き、「鍋蓋城」とした。これは現在の城址の東北400mの地点であるという。子の光為は乙女坂に支城を築き、「乙女坂城」と称した。これが現在の二の丸の地であるという。しかしこの頃の小諸城は土塁と空掘をめぐらした程度の砦にすぎなかった。
小諸に最初に本格的な城を築いたのは武田信玄である。信玄は天文12(1543)年、小諸城を落として信州侵略の根拠地とした。このため新城築城に当っては、軍師山本勘助と馬場信幸を責任者として行った。城は周囲に深さ10mの空掘を幾重にもめぐらし、西に本丸、東に堀を隔て二の丸、三の丸を構えたものであり、規模は大きい。
武田信玄の子勝頼は、織田信長に攻められて、天正10年3月天目山で滅びてしまったので、小諸城は織田領となった。
(日本城郭全集より)


石垣


天守台

天文23(1554)年に「8月6日ニ、サクノカウリノ要カイ一夜ニ九ツヲチ申候、(中略)小室モ自ラヲチ申候」(『勝山記』)とあるように武田信玄は自落した小諸城を佐久・小県の鎮台とするため鍋蓋城も取り入れて戦国時代の大要塞に拡大した。この時縄張りをしたのが山本勘助であるという説が残っている。小諸城の基本構造である一直線上に本丸・二の丸・三の丸を設け、左右対照の郭を置く姿はこの時すでにできていた。信玄は小山田備中守昌行を置いて守らせたが、永禄年間(1558-70)、越後国上杉氏との対立抗争の間には「岩櫃より注進の如くんば、敵沼田へ相移るの由に候。万一西上野に至って行に及ばば、北方衆悉くその地へ移すべきの旨申し付け候、また佐久郡の同心衆・松井田の地衆を相集め、城内・根小屋等堅固の備尤もに候」と城の警備を厳にすべき旨の手紙を城将昌行に送っている。
(日本城郭大系より)


天守台


鏡石

山本勘助晴幸が常に愛用したと伝へられる。また隕石とも言われている。
(看板資料より)

 



2005年10月23日
約5年ぶりに小諸城を訪れました。小諸城訪問はまったく予定していなかったのですが、帰路渋滞を避けるために夕方立ち寄ることにしました。既に薄暗く、入場しても見れるかどうか心配でしたがなんとか見てまわることができました。そして前回の訪問時はまったく気がつかなかった険しい断崖を確認することもできました。

小諸城址 懐古園 案内図

小諸城の沿革と懐古園
小諸城の起りは、平安末期から鎌倉時代にかけて源平盛衰記や平家物語に登場する木曽義仲の武将として名をとどろかせた小室太郎光兼が現城址の東側に館を築きました。その後大井光忠が小室氏をおさえて鍋蓋城を築城、さらに乙女坂城(白鶴城)とも云う現在の二の丸跡を構えたが、武田信玄の攻略により落城。信玄はこの地が重要であることから山本勘介と馬場信房に命じて築城したのが現在の小諸城跡で酔月城と名付けました。さらにその後豊臣領となって仙石秀久が城主になり、二の丸、黒門(一の門)、大手門(四の門)を建てて現在の小諸城が完成したのであります。
この城の堀は、浅間山の火山灰層で水を用いずに崩れやすい断崖が堅固な防塞になっております。また(穴城)城下町より低いところに城があるので、そのように呼ばれ全国でも1、2を数える珍しい城址といわれています。
明治2年の廃藩置県で役割を終え、明治13年に神社を祀り、懐古園と呼ぶようになりました。子諸なる古城のほとり雲白く遊子かなしむ…と島崎藤村に詠われた懐古園は、11の丘と12の谷からなる国際観光公園であります。園内には、徴古館、藤村記念館、郷土博物館、小山敬三美術館、動物園等の諸施設があります。
(看板資料より)


石垣

この部分の石垣は復元したものです。明治4(1871)年の北国街道整備の際、ここにあった石垣は道路の端縁石に用いられ、その後長い間火山灰の崖のままでしたが、石垣を懐かしむ声が多数寄せられ、昭和59(1984)年に当時より大きな石を用いて復元しました。
(看板資料より)

上の写真の石垣は入場してすぐのところにあった石垣ですが、案内に書かれていた通り大きな石垣でした。現在の小諸城址は全体的に立派な石垣が残されています。


二の丸跡

旧白鶴城という。徳川秀忠が関ヶ原合戦に赴く際逗留したところ。
(石柱の文章より)


鶯石

城主の通行や祝いごとのあるたびに「うぐいす」の鳴声をたてたといわれる。
(石柱の文章より)


北の丸跡


懐古神社

本丸は懐古神社になっていました。懐古神社の鳥居の横には小諸城址の石碑がありました。


鏡石

山本勘助晴幸が常に愛用したと伝へられる。また隕石とも言われている。
(看板資料より)


展望台から千曲川

小諸城本丸の奥は馬場で広くなっていました。我々が訪れた時は菊の展示が行なわれていました。馬場の先は断崖絶壁になっていて展望台がありました。上の写真の右上の部分がその展望台ですが、断崖の下には蛇行する千曲川を望むことができました。


地獄谷

展望台から戻り、左側に進むと酔月橋があってこの橋を渡ると、小山敬三美術館や郷土博物館に行くことができます。今回は既に時間が遅かったので酔月橋までしか行きませんでした。しかしこの橋は地獄谷と呼ばれる険しい谷の間にかかっていて橋から下をのぞくと足がすくんでしまいます。まさに天険を利用した要害ですね。小諸城がこんなに険しい城であるとは知りませんでした。
これ以外にも奥の馬場から千曲川方面に下って行くコースなどもあったので時間があるときにまた探索してみたいと思いました。

本丸と南丸の間の堀

本丸と南丸の間には黒門橋がありますが、この橋は本丸と南丸の間の堀にかかっているものでした。この堀もかなり大きな規模のものでした。前回来たときはなんでこれらの遺構に気がつかなかったのでしょうか?多分まだ史跡を巡り始めたばかりだったので興味が湧かなかったのかもしれません。


武器庫

この建物は文化14(1817)年藩主牧野康長公が建てたものです。廃藩後取りこわされ八幡村依田仙右衛門宅へ移し更に東京へ移築し使用していたものを復原するため当時の外観など原形に近いものを建てようとして再建したものです。
(看板資料より)

 



2000年10月15日
重要文化財 小諸城三の門(平成5年12月9日国指定)

小諸城は慶長元和年間(関ヶ原役前後)にわたって時の城主仙石氏が築城しました。三の門も大手門と同様に一連の造営の中で創建されたものです。
しかし寛保2年(1742年)小諸御城下を襲った大洪水により三の門は流失し約20年後の明和年代に再建されて現在に至っています。
寄棟造、桟瓦葺の櫓門で、1階は桁行3間、北脇に潜戸を構え、隅金具、八双金具等が施してあります。
2階は西側に袖塀を設け矢狭間、鉄砲狭間が城郭の面影を残しています。
桁行5間、梁間2間で内部は住宅風の1室になっています。
大手門とともに小諸城の貴重な建造物として国の重要文化財指定を受けています。
〜看板資料より〜


二の丸跡

 


懐古園稲荷神社由緒

この稲荷神社は、藩主牧野公が元禄15年、越後の与板藩から小諸藩に入封された際、ともに与板藩より遷座されました。
始めは御城下赤坂の地に祭られ、商売繁盛、家内安全の守り神として崇敬されていました。文政12年には、神祇官総領公文所より神璽を授かるほどの格式をもった霊験あらたかな稲荷神社であります。
小諸城には、別に城内鎮護の守護神として、城内富士見台に稲荷社が祭られていました。この社は戦国時代に武田氏との由緒の言い伝えもありますが、御城中繁盛安全、永久大安の守り神として小諸城を守り続け、廃藩まで祭られてきました。
以降、この社と赤坂稲荷は合併されて現在の地に遷座され、大願成就の守護神として多くの人々の信仰を集めております。
〜看板資料より〜


山本勘助が愛用したといわれる鏡石

馬場付近

荒神井戸
寛保の大洪水後掘られた城内唯一の井戸

黒門橋


重要文化財 小諸城大手門
大手門またの名を瓦門といい小諸城主仙石秀久が築造した正門である。
現存の門は慶長17年(1612年)の建立といわれています。
5間の櫓門、入母屋造の本瓦葺で北面しており、1階は桁行5間、梁間2間とし正面中央間の太い柱を用いるなど豪壮な構えとなっている。
2階は桁行7間、梁間3間垂木には反り増しがある。東西2室で畳敷とし座敷のようになっている。入口は東側中央間とし板縁を設けてある。
近世初頭の大型の城門として日本の城門発展の過程を知るうえに価値が高く重要な建物であります。
〜看板資料より〜


小諸宿本陣主屋
慶長16年(1611年)「北国街道」に宿駅伝馬制が敷かれて「小諸宿」が設けられました。その後「小諸宿」は、関東への出入口として、また参勤交代や善光寺詣などの街道交通の要衝として隆盛を極めました。
参勤交代の大名などが休泊した「小諸宿本陣主屋」は、木造切妻造桟瓦葺平屋建の豪壮な建物で、18世紀末〜19世紀初頭の建築と推定され、当時は、市町に現存する国指定重要文化財「旧小諸陣(門屋場)」のとなりに建てられていました。
その後明治11年(1878年)に佐久市鳴瀬の桃源院に移築され、寺の本堂や庫裡として使われてきましたが、このたび桃源院のご厚意により、建物一式が小諸市に寄贈されました。市ではこれを受けて旧地にほど近い現在地に建物を移築再現し、往時の小諸宿繁栄をしのぶ貴重な資料とともに歴史資料館として公開したものです。
〜看板資料より〜

 
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