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愛知県新城市

高坂又八郎助宣の墓

2014年08月15日

「伝」の字が刻まれた謎の碑。討死の場所が不明。高坂弾正に近い人物と思われる。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)

『甲斐国志』によれば、高坂弾正には3人の息子があり、長男源五郎昌澄は長篠で討死、次男源五郎昌貞は勝頼没後上杉景勝に討たれる。三男勝五郎という者がいたと記されているが、又八郎助宣の名は出てこない。別項に高坂又九郎助宣の名をあげ、弾正の族人かと疑問を呈しているのみである。三男勝五郎と又八郎助宣が同一人物とは考えられない。
高坂弾正は、春日弾正から改名したもので、永禄4(1561)年、武田信玄は北信濃の名族、牧之島城の城主香坂宗重を討ち、その娘を春日弾正に嫁がせ香坂の名跡を継がせ、香坂弾正忠昌宣と改名させたとする説がある。
『更科埴科地方誌(第二巻)』では、この説は更に研究検討を要するとしているが、敗れた香坂一党は高坂弾正の配下に入ったとしているので、又八郎助宣は香坂一族の出で、香坂宗重の息子、即ち高坂弾正に嫁いだ娘の兄あるいは弟とも考えられる。
長男源五郎昌澄、次男源五郎昌貞は、父昌宣の昌の一字を、又八郎助宣は宣の一字を、それぞれ名乗りに与えられていることからも、又八郎助宣は、高坂弾正夫妻の極めて身近な一族の一人であったと推測される。
大正3年5月、長篠古戦場顕彰会により、有海字稲場四五の地に「伝高坂又八郎助宣之墓」と刻まれた墓碑が建てられた。顕彰会がこの有海字稲場を又八郎助宣討死の場所とした根拠は、『三河国名所図絵』、『愛知県南設楽郡誌』、口碑、牧野文斎の研究調査等によるものと考えられるが、今ひとつ判然としなかったために「伝」の一字を付したものだろう。
(「設楽原戦場考」より)

 



2006年05月06日

「伝」の字が刻まれた謎の碑。討死の場所が不明。高坂弾正に近い人物と思われる。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)

『甲斐国志』によれば、高坂弾正には3人の息子があり、長男源五郎昌澄は長篠で討死、次男源五郎昌貞は勝頼没後上杉景勝に討たれる。三男勝五郎という者がいたと記されているが、又八郎助宣の名は出てこない。別項に高坂又九郎助宣の名をあげ、弾正の族人かと疑問を呈しているのみである。三男勝五郎と又八郎助宣が同一人物とは考えられない。
高坂弾正は、春日弾正から改名したもので、永禄4(1561)年、武田信玄は北信濃の名族、牧之島城の城主香坂宗重を討ち、その娘を春日弾正に嫁がせ香坂の名跡を継がせ、香坂弾正忠昌宣と改名させたとする説がある。
『更科埴科地方誌(第二巻)』では、この説は更に研究検討を要するとしているが、敗れた香坂一党は高坂弾正の配下に入ったとしているので、又八郎助宣は香坂一族の出で、香坂宗重の息子、即ち高坂弾正に嫁いだ娘の兄あるいは弟とも考えられる。
長男源五郎昌澄、次男源五郎昌貞は、父昌宣の昌の一字を、又八郎助宣は宣の一字を、それぞれ名乗りに与えられていることからも、又八郎助宣は、高坂弾正夫妻の極めて身近な一族の一人であったと推測される。
大正3年5月、長篠古戦場顕彰会により、有海字稲場四五の地に「伝高坂又八郎助宣之墓」と刻まれた墓碑が建てられた。顕彰会がこの有海字稲場を又八郎助宣討死の場所とした根拠は、『三河国名所図絵』、『愛知県南設楽郡誌』、口碑、牧野文斎の研究調査等によるものと考えられるが、今ひとつ判然としなかったために「伝」の一字を付したものだろう。
(「設楽原戦場考」より)

高坂又八郎助宣の墓は、新東名工事のため新昌寺本堂裏に移設されていました。鳥居強右衛門の碑の横になります。すぐ後ろには新東名が開通する予定のようで工事が進められていました。

 



2006年05月06日

吉川弘文館の長篠・設楽原の戦いによれば、高坂又八郎助宣は高坂弾正に近い一族と思われるが出自は不明とのことです。この地にある墓とは別に山県三郎兵衛昌景の墓のところにも高坂又八郎助宣の墓というものがあります。

 



2003年10月12日

小山田五郎兵衛昌晟之墓横田十郎兵衛康景之碑から鳥居駅方面に進み、最初に右折できる道を右へ進むと突き当たり手前の右側に高坂又八郎助宣の墓がありました。


山県昌景陣地(山県三郎兵衛昌景の墓、高坂又八郎助宣の墓他)

 

 
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