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愛知県岡崎市

久保城

2014年03月29日

久保城由来
ここは久保城、または稲荷屋敷と呼ばれる城址(史跡)である。作手亀山城主奥平貞昌が戦国時代に築いた城で、男川と稲荷沢に挟まれた尾根の端に位置している。
標高は176m、高低差は30mあり、三、四段の曲輪、土塁、堀切、縦堀があった山城である。
この城は天正18(1590)年、城主の関東移封によって廃城となり、今は土塁、堀切、曲輪らしき跡のみが残っている。
元亀元(1570)年、奥平一族、老臣等がこの久保城に集まり、一族の存続を図るために、武田方と徳川方の両方に分かれてつくことに決めた。
この話し合いを、石原の人たちは「久保の密談」と言っている。
(看板資料より)

川向こうの正面が久保城址である。久保城は作手城主奥平貞昌が戦国時代に築いた出城で、男川と稲荷沢(渓流)に挟まれた山の突端上にある。城域は東西約110メートル、南北約150メートルほどで、本丸、二の丸、三の丸、空掘等があった山城と思われる。 元亀元(1570)年秋、奥平諸将はひそかにこの久保城に集まり、一族の存続を図るために、武田方と徳川方の両方に分かれてつくことにした。その評定を村の人々は「久保城の密談」と言っている。 この城は天正18(1590)年、城主の関東移封によって廃城となり、今は本丸や空掘の跡のみが残っている。
(看板資料より)



2005年02月11日

川向こうの正面が久保城址である。久保城は作手城主奥平貞昌が戦国時代に築いた出城で、男川と稲荷沢(渓流)に挟まれた山の突端上にある。城域は東西約110メートル、南北約150メートルほどで、本丸、二の丸、三の丸、空掘等があった山城と思われる。 元亀元(1570)年秋、奥平諸将はひそかにこの久保城に集まり、一族の存続を図るために、武田方と徳川方の両方に分かれてつくことにした。その評定を村の人々は「久保城の密談」と言っている。 この城は天正18(1590)年、城主の関東移封によって廃城となり、今は本丸や空掘の跡のみが残っている。
 (看板資料より)

滝山城(亀穴城)から田原坂に向う途中、偶然看板を発見し、立ち寄ってみたところ、武田に関わるものでした。実際に川を渡ってはみませんでしたが、場所は宮崎小学校の向いあたりでした。

 

 
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