←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県木曽町

真理姫の墓

2013年08月02日

<EOS M EF-M22mmf/2 STM 22.0mm Tv:1/125 Av:2.0 ISO:100>

木曽義昌の夫人は武田信玄の女で、天文17年10月甲府より入輿している。『木曽旧記録』には「義昌公御簾中之事」と題する記録が収録されている。(以下略)
木曽義昌は天正18(1590)年豊臣秀吉によって下総国に移封させられた。これは秀吉が徳川家康に関東八州を与えた政策に関連するもので、家康の配下にあった義昌もこの時他の信濃の諸将と共に関東に領地をもらって、住み慣れた木曽谷を離れ、下総国海上郡で一万石を封ぜられている。
網戸村(現在の旭市)の近くに城を構えた義昌は、5年後の文禄4(1595)年3月17日56歳で病没し、菩提寺東漸寺に葬られた。戒名は東漸寺殿玉山徹公大居士。ところがその子義利は暗愚のうえ暴挙が家康に知れ、改易となり城は没収され、義仲から数えて18代、420年続いた木曽氏は滅亡してしまった。
夫人武田氏は『木曽福島町誌』には、義昌に従って網戸に赴き、義利改易の後、末子義通を伴って窃に木曽に帰り、黒沢の上村に隠棲したとあるが、『岐蘇古今沿革志』には、網戸へ行ったのか、木曽に残ったのか、詳しくは分からないとしている。
前に上村氏の項で述べておいたように『木曽谷中旧家系譜録』によると、夫人が上村に隠棲したのは天正10年のことである。〜途中略〜「今度存念の儀これ有り」とあるように、夫人が上村に住むようになったのは、小笠原貞慶の木曽侵入を避けたのではなく、義昌が武田勝頼に離反したことにより夫人を避けたものではないだろうか。とすると網戸移封にも従わず黒沢の地に残ったことがうかがわれる。このことについて旧記録には「上村作左衛門成敗事件の時夫人は黒沢の和田の小三郎の家に移った」とか「義昌公甲州と不和になり上村氏に預けた」といったことが述べられている。
夫人は98歳の長寿を保ち、正保4年7月10日上村家で病没し、この地に葬られている。戒名は真龍院殿仁栄宗真大姉とある。上村家屋敷の裏には夫人のものと伝えられる五輪塔が現存している。
このように夫人は天正10年から正保4年まで65年間黒沢村に隠棲していたことがうかがわれるが、義昌の逆心として成敗された家筋である上村家になぜ夫人が長時間にわたって住居していたのだろうか。はっきりしたことはわからないが、作左衛門は入輿後の夫人に側近として仕えていたことがあり、夫人と上村家とはもともと親密な間柄であったのではないかと思われる。
夫人には男子3人女子3人の子供がいたといい、上村隠棲の時には末子の義一(義通ともある)を伴っている。
母子は上村氏をたよって生活しながらも、木曽谷に散居している義昌の旧家臣との関係を密にすることによって木曽氏の再興を念願していたようである。その間の事情を物語る史料として「よしかつ」の署名のある書状が2通残っている。1通は王滝村の松原氏あて、もう1通は同じ王滝村の大屋氏にあてたものである。
〜途中略〜
義一は後になって三尾の小島氏の庇護を受け、小島で一生を過ごしたもののようである。小島にはハカンデラ(墓の平)という所の大きな桜の老木(エドヤマザクラ)の下に義昌夫人ゆかりの石地蔵と五輪塔があり、オオヤとよぶ家の裏にも五輪石一基が建っている。
(三岳村誌より)



ハカンデラの五輪塔

<EOS M EF-M11-22mmf/4-5.6ISSTM 21.0mm 
Tv:1/160 Av:13.0 ISO:100>


オオヤの五輪塔

<EOS M EF-M11-22mmf/4-5.6ISSTM 19.0mm
Tv:1/125 Av:10.0 ISO:100>

小島に行ってみると、ハカンデラのエドヤマザクラの所に五輪塔がありました。しかし役場で見せていただいた写真とは状況が異なっており、小島家の墓の区域の一角に五輪塔が建てられていました。更に奥に進んだ所にオオヤの五輪塔もありました。私がお話を聞いた方によるとどちらも真理姫の墓と伝わっているとのことでしたがなぜここに二つもあるのかは分からないとのことでした。
また、木曽町役場の教育委員会で聞いた話では、小島の五輪塔は真理姫の息子のものであるとのことでした。

 



2004年09月19日

真理姫五輪の塔 由来
真理姫は、木曽家19代義昌の夫人である。夫人は甲斐の武田晴信(信玄)の三女で、勝頼の妹でもあるが、戦国の世に生まれ、数奇な一生を過し、この地で亡くなっている。
・弘治元(1555)年武田晴信は木曽義康(18代)は、利あらず降伏する。晴信はこれを許し、当時16才の義昌に、幼少6才の三女真理姫を娶わせて、木曽氏を武田一門の親族衆に加えた。これ以来真理姫は木曽義昌夫人となる。
・天正元(1573)年晴信卒し、勝頼の代となる。
・天正三(1575)年勝頼は、長篠の戦いで織田・徳川の連合軍に大敗し、武田の勢力俄かに衰える。
・天正十(1582)年1月、夫人真理姫は義昌離反を勝頼に内報する。勝頼大いに怒り木曽へ部将を派遣し攻めるも、義昌これを鳥居峠で破る。2月には勝頼自身出兵し、再び木曽・織田連合軍に敗れ去る。ついで甲斐を攻略され、部下将兵も離反し勝頼天目山で自刃し、武田氏ついに亡ぶ。
・天正18(1590)年木曽は豊臣秀吉領となり、木曽氏は下総網戸へ、わずか一万石の領主として移封された。
・慶長元(1596)年義昌の長子義利(20代)は、暗愚のため、木曽家は家康により没収、お取潰しとなる。
・夫人真理姫は、三男三女の母となっていたが、末子義通(義一)をつれ、当三岳村野口の上村作右衛門に身をよせ、隠棲しながらも、木曽谷の士豪にはかり、木曽家再興を念願したが、時代の流れは大きく変わり、果せなかった。
・正保4(1647)年7月7日真理姫は98才の長い一生をこの地に終えたと伝えられている。
(看板資料より)


休日でしたが三岳村役場を訪問し、真理姫の墓の場所を尋ねました。役場には日直の人?がいて丁寧に地図まで書いてくれて場所を教えてくれました。場所を文章で書くのは難しいですが、三岳村役場から開田村に向う県道沿いの看板にも真理姫の墓と書かれた案内がありましたので地元ではかなり有名のようでした。現地は個人の方が管理しているとのことでしたがきれいに整備され、墓の傍らには教育委員会の大きな案内板もありました。


東漸寺
木曽義昌公史跡公園
大通寺
興禅寺
福島城

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→