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群馬県安中市

松井田城

2014年11月23日

堀切

舌状にのびる尾根や峰続きを断ち切る目的で、鉈で切ったように堀を切った空掘を堀切りという。堀の断面はV字型である。山城に多く用いられ、敵の進攻を阻止するための防御線である。
(看板資料より)

歩き始めて最初に出てくる看板は上記の堀切の場所です。通路の幅が広いため堀切の様子は分かりづらいですが、左右に凹んだ部分があります。


水の手(水曲輪・井戸・井戸曲輪)

城中の兵や馬の生活に必要な水を得る所である。井戸のこともあるが、多くはダム状に土を盛って土手を築き、湧水を貯めておく貯水池をいう。籠城する場合には特に重要な曲輪である。
(看板資料より)

二つ目の堀切を越えてすぐに左右に分かれるところがあります。右が本郭方面、左が水の手と書いてあります。今まで過去2回ここを訪れたときは何れも右側に行っていたのですが今回は左側に行ってみました。すると水の手にたどり着きます。看板の下辺りには少量ですが湧き水が流れていました。


堀切


竪堀

敵が斜面をよじ登って攻め込んで来るのを防ぐために、郭(曲輪)の前方の斜面や、屋根の斜面に設けられた上下方向(等高線に直角)の空掘である。空掘をよじ登って来る敵を上から石等を落として防いだ。
(看板資料より)


安中郭(曲輪)

松井田城落城記にも「安中くるわ」の名で出てくる。安中忠政が本格的に築城して、武田勢と戦ったのはこの郭(曲輪)だと言われている。城をいくつかの区域に分けた一つ一つを郭(曲輪)という。安中郭(曲輪)は長さ60m幅40m程ある。「郭」は江戸時代になってからの呼び方である。
(看板資料より)

大道寺駿河守政繁居城記念碑

松井田城安中郭は越後新発田から移ってきた安中氏が、永禄2(1559)年安中忠政の時にもともとあった松井田城のうち安中郭部分を主郭として築城し直したものとされている。
その後松井田城は永禄5(1562)年頃に武田氏により攻め落とされ武田氏の城となるも、武田氏の滅亡により織田氏のものとなる。本能寺の変で織田信長が斃れた後は北条氏の城となり、北条氏の重臣大道寺駿河守政繁が城主となるが、織田政権の後を継いだ豊臣秀吉の小田原征伐の際に北陸方面軍3万5千の大軍を受け開城。天正18(1590)年に松井田城は廃城となった。
(安中市の文化財より)


櫓台(矢倉台)

一段と高く土を盛り上げ(この部分が櫓台)、その上に建てた盆踊りのやぐら状の建物を櫓(矢倉)という。本来は戦いに備えて沢山の矢を貯蔵しておく倉であったのでこの名がある。敵の動きを見る物見台や味方に命令を伝える指揮所の役目をする建物である。
(看板資料より)


本丸(本城)

城で一番重要な曲輪だとして江戸時代には本丸と呼ばれたが、戦国期には本丸の語は無く、本城とか、一の曲輪と呼ばれていた。城主の居所であり、戦いの際には作戦本部となり、すべての指揮や命令はここから出る。城中で最も重要な役目をもつ曲輪である。松井田城には、よく絵にあるような壮大な天守閣は無かった。
(看板資料より)


虚空蔵菩薩

この城跡は、松井田町大字新堀、高梨子および新井に位置し碓氷川と九十九川にはさまれ、標高およそ250〜410mの尾根上に築城された戦国期の大きな山城です。
城跡の主要部は、およそ東西に1km、南北に1.5kmにおよび、ところどころを堀切で断ち、その間に10ヶ所ほどの郭が並んでいます。
この城は数度の改修がなされ、北条氏支配の天正年間には大道寺駿河守政繁が城主となり大改修拡張し、現遺構のように完成し北条氏(小田原)の築城法を示す典型的な山城となりました。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めで、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らに攻められ落城しました。落城後も、城としての遺構をほぼ完全に残している県内はもちろん全国的にみても極めて重要な城跡です。
(看板資料より)

 松井田と新堀の北側に東西に続く尾根上に築かれ、古い碓氷道・東山道は城の北側を通り、中山道は城の南側を通る。この城は関東西北の要衝碓氷峠に備える重要な城であった。諏訪城と呼ばれたのは、おそらくこの城(あるいは西城)で、天文2(1533)年、快元僧都の鎌倉八幡再建の勧進に応じた諏訪左馬助はここの城主と思われ、安中宮内少輔・飽馬右衛門大夫・依田右衛門大夫と名を連ねている。安中・秋間・後閑・諏訪の城主が並記されていて興味深い。永禄4(1561)年11月、武田信玄は梅原明神に西牧・高田・諏訪三城の撃滅を祈願して兵を進め、19日には高田繁頼を降して国峯に向ったが、諏訪城攻略は目的を果たさず、12月、下弾正に諏訪城略取の工作を依頼したが成功しなかった。『安中誌』の新堀の頃には、「字は西城、城主諏方但馬守」とあるが、西城はささやかな館城で、信玄に対しては九牛の一毛にも足らず、これほど執拗に担う価値はなかったと思われる。『上野誌』によれば、長享元(1487)年、安中忠親が松井田西城に住み、その子忠清が原市の榎下城に移ったとあるので、その後、諏訪氏が松井田城(諏訪城)に入ったと考えられぬこともない。忠清の子忠政は、野尻の窪庭図書を追ってそこに築城して移り、さらに松井田城を改修して居城とし、安中には嫡子忠成を入れた。この処置は、信濃における信玄の活動が激しく、隣接する新田(後閑)・小幡の両氏が甲斐に去り、唇亡んで歯寒しの感がきびしかったからであろう。『上州故城塁記』や『上野志』は忠政を春綱、忠成を広盛としている。
 これよりさきの天文16(1547)年、「笛吹峠御用心のためさしをかれたる浅利こみ山丹後松枝(松井田)衆と十月廿一日せり合ありてこれも松枝衆丗二人討とりて注進申され候なり」と『甲陽軍艦』にあり、松井田衆が愛宕山城を攻撃した戦闘と思われ、戦死者数から考えれば、松井田を本拠とする数百人からなる武士団があったと考えられる。このことから、当時すでに松井田城が存在したと推定されよう。
 天文18年、三寺尾合戦に忠政を主将とする上州九頭の諸将が武田勢と戦ったというのは、場所も事実も不明で、『上野志』が記す翌19年3月、信玄の松井田城攻撃の条も事実不明である。同21年4月、長尾景虎(のちの上杉謙信)が上杉憲政の請を容れて兵を出し平井城を奪還した時、忠政が嚮導したというのは事実と思われるが、出陣したのは平子・庄田・宇佐美の諸将だけだったであろう。弘治3(1557)年、忠政らは長野業政を隊将とし瓶尻において武田勢と戦ったが、瓶尻は松井田城の南、人見原であろうともいわれている。永禄4年、高田繁頼を降した信玄は、安中・松井田間に楔入して八幡平に陣城を築き、永禄5年、6年に碓氷の麦作を刈り取り、苗代を薙ぎ払い、安中氏の戦力低下をはかりつつ、永禄7年夏、安中・松井田城に攻撃をかけた。忠成は即時信玄に降って安中氏の存続をまっとうしたが、父忠政は松井田城を守って頑強に防戦したのち、力尽きて開城、自刃を命じられた。この時、忠成は景繁と名を改める。信玄は小宮山・原両将に松井田城を受け取らせ、市川国貞を城代とした。
(日本城郭大系より


堀切


馬出

本丸(本城)や二の丸(二の城)等の出入り口の手前に設けられた小区域で一旦ここに出た人馬が揃して城外へ出撃するので馬出という。入る時も馬出に入って員数を確認してから中に入った。
(看板資料より)


堀切


土居(土塁・堤・土手)

土を盛り上げて築いた土手で、敵から矢弾を防ぐと共に、敵に矢弾を撃ちかける時には攻撃台になる。
(看板資料より)


二の丸(ニの城・中城)

城中で2番目に重要な曲輪だとして江戸時代になって二の丸と呼ばれるようになったが、戦国期には二の丸の語は無く二の城とか中城とか呼ばれた。本丸(本城)の前方にあって、本丸の守りを固める位置につくられた曲輪を言う。
(看板資料より)


連続空堀(畝状空堀)

ほぼ平坦な地に、土を高く盛り上げた土居と、V字形に掘り下げた空掘とを交互に構築した防御線である。


二の丸奥の断崖


堀切


横堀

横方向(等高線に対して平行)に掘られた空掘を横堀という。多くは、大手筋や本城(本丸)近くに構築される。自然堆積土があまりにも多いので、掘られた当寺の堀の巾は不明である。
(看板資料より)


門跡(大手門跡)

大手門は城の正面に設けられた門で一城の正門である。本来は追手門という。追手とは篭城のとき正面に攻めて来る敵を搦手から出撃し正面に追い詰めて戦うように造られているのでそう呼ばれる。一般的には巨石や石垣で固めた大きな桝形に虎口が付いている。
(看板資料より)

 



2009年09月05日

この城跡は、松井田町大字新堀、高梨子および新井に位置し碓氷川と九十九川にはさまれ、標高およそ250〜410mの尾根上に築城された戦国期の大きな山城です。
城跡の主要部は、およそ東西に1km、南北に1.5kmにおよび、ところどころを堀切で断ち、その間に10ヶ所ほどの郭が並んでいます。
この城は数度の改修がなされ、北条氏支配の天正年間には大道寺駿河守政繁が城主となり大改修拡張し、現遺構のように完成し北条氏(小田原)の築城法を示す典型的な山城となりました。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原攻めで、前田利家、上杉景勝、真田昌幸らに攻められ落城しました。落城後も、城としての遺構をほぼ完全に残している県内はもちろん全国的にみても極めて重要な城跡です。
(看板資料より)

 松井田と新堀の北側に東西に続く尾根上に築かれ、古い碓氷道・東山道は城の北側を通り、中山道は城の南側を通る。この城は関東西北の要衝碓氷峠に備える重要な城であった。諏訪城と呼ばれたのは、おそらくこの城(あるいは西城)で、天文2(1533)年、快元僧都の鎌倉八幡再建の勧進に応じた諏訪左馬助はここの城主と思われ、安中宮内少輔・飽馬右衛門大夫・依田右衛門大夫と名を連ねている。安中・秋間・後閑・諏訪の城主が並記されていて興味深い。永禄4(1561)年11月、武田信玄は梅原明神に西牧・高田・諏訪三城の撃滅を祈願して兵を進め、19日には高田繁頼を降して国峯に向ったが、諏訪城攻略は目的を果たさず、12月、下弾正に諏訪城略取の工作を依頼したが成功しなかった。『安中誌』の新堀の頃には、「字は西城、城主諏方但馬守」とあるが、西城はささやかな館城で、信玄に対しては九牛の一毛にも足らず、これほど執拗に担う価値はなかったと思われる。『上野誌』によれば、長享元(1487)年、安中忠親が松井田西城に住み、その子忠清が原市の榎下城に移ったとあるので、その後、諏訪氏が松井田城(諏訪城)に入ったと考えられぬこともない。忠清の子忠政は、野尻の窪庭図書を追ってそこに築城して移り、さらに松井田城を改修して居城とし、安中には嫡子忠成を入れた。この処置は、信濃における信玄の活動が激しく、隣接する新田(後閑)・小幡の両氏が甲斐に去り、唇亡んで歯寒しの感がきびしかったからであろう。『上州故城塁記』や『上野志』は忠政を春綱、忠成を広盛としている。
 これよりさきの天文16(1547)年、「笛吹峠御用心のためさしをかれたる浅利こみ山丹後松枝(松井田)衆と十月廿一日せり合ありてこれも松枝衆丗二人討とりて注進申され候なり」と『甲陽軍艦』にあり、松井田衆が愛宕山城を攻撃した戦闘と思われ、戦死者数から考えれば、松井田を本拠とする数百人からなる武士団があったと考えられる。このことから、当時すでに松井田城が存在したと推定されよう。
 天文18年、三寺尾合戦に忠政を主将とする上州九頭の諸将が武田勢と戦ったというのは、場所も事実も不明で、『上野志』が記す翌19年3月、信玄の松井田城攻撃の条も事実不明である。同21年4月、長尾景虎(のちの上杉謙信)が上杉憲政の請を容れて兵を出し平井城を奪還した時、忠政が嚮導したというのは事実と思われるが、出陣したのは平子・庄田・宇佐美の諸将だけだったであろう。弘治3(1557)年、忠政らは長野業政を隊将とし瓶尻において武田勢と戦ったが、瓶尻は松井田城の南、人見原であろうともいわれている。永禄4年、高田繁頼を降した信玄は、安中・松井田間に楔入して八幡平に陣城を築き、永禄5年、6年に碓氷の麦作を刈り取り、苗代を薙ぎ払い、安中氏の戦力低下をはかりつつ、永禄7年夏、安中・松井田城に攻撃をかけた。忠成は即時信玄に降って安中氏の存続をまっとうしたが、父忠政は松井田城を守って頑強に防戦したのち、力尽きて開城、自刃を命じられた。この時、忠成は景繁と名を改める。信玄は小宮山・原両将に松井田城を受け取らせ、市川国貞を城代とした。
(日本城郭大系より


堀切り

舌状にのびる尾根や峰続きを断ち切る目的で、鉈で切ったように掘り切った空掘を堀切りという。堀の断面はV字型である。山城に多く用いられ、敵の進攻を阻止するための防御線である。
(看板資料より)


横掘

横方向(等高線に対して平行)に掘られた空掘を横堀という。多くは、大手筋や本城(本丸)近くに構築される。自然堆積土があまりにも多いので、掘られた当寺の堀の巾は不明である。
(看板資料より)


門跡(大手門跡)

大手門は城の正面に設けられた門で一城の正門である。本来は追手門という。追手とは篭城のとき正面に攻めて来る敵を搦手から出撃し正面に追い詰めて戦うように造られているのでそう呼ばれる。一般的には巨石や石垣で固めた大きな桝形に虎口が付いている。
(看板資料より)


本丸(本城)

城で一番重要な曲輪だとして江戸時代には本丸と呼ばれたが、戦国期には本丸の語は無く、本城とか、一の曲輪と呼ばれていた。城主の居所であり、戦いの際には作戦本部となり、すべての指揮や命令はここから出る。城中で最も重要な役目をもつ曲輪である。松井田城には、よく絵にあるような壮大な天守閣は無かった。
(看板資料より)


土居(土塁・堤・土手)

土を盛り上げて築いた土手で、敵から矢弾を防ぐと共に、敵に矢弾を撃ちかける時には攻撃台になる。
(看板資料より)


二の丸(ニの城・中城)

城中で2番目に重要な曲輪だとして江戸時代になって二の丸と呼ばれるようになったが、戦国期には二の丸の語は無く二の城とか中城とか呼ばれた。本丸(本城)の前方にあって、本丸の守りを固める位置につくられた曲輪を言う。
(看板資料より)

 


2000年10月15日

門跡(大手門跡)

武田晴信(信玄)が、上野国(群馬県)に本格的に攻め入るのは川中島の合戦がひと段落して以降の永禄年間になってからですが、甲陽軍鑑によれば、永禄3(1560)年5月に箕輪城主長野業正が国峯城主小幡重定の隙をついてその城を奪い、小幡重定が信玄に頼ったのがきっかけとなり、永禄3年9月に信玄が上野に出兵して安中城、松井田城を攻めたといわれています。
松井田城は当時小屋城と呼ばれていました。城主である安中忠政は長野業正と同盟を結び信玄に対抗しましたが、後に小屋城は信玄に攻略されます。しかし、いつ頃のことなのかは資料によって色々な年が書いてあってよく分かりません。
山川出版社の群馬県の歴史散歩の箕輪城攻防戦によれば、永禄7(1564)年に倉賀野城が落城し、翌永禄8(1565)年に松井田城、安中城が陥落。更に永禄9(1566)年に箕輪城が攻略されたとあり、学研の歴史群像シリーズの風林火山では、信玄は永禄9(1566)年には本格的に箕輪城攻略に乗り出し、2万の軍勢を率いて上野に攻め入って途中、松井田城、安中城を落とした。とあります。

武田氏が滅んだ後は、北条氏政の城となり、家臣の大道寺政繁が入城して大改修工事を行い、城の領域も4倍以上の大きさとなって松井田城と名前を改められました。しかし豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城し、その後は廃城となったそうです。確かに城域はかなり大きく当時のままの姿が残されています。

本丸跡

 
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