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岐阜県高山市

松倉

2006年05月04日

松倉城絵図

ずいぶん高いところにありましたが、突然現れる立派な石垣に驚かされました。岐阜の山城は立派な石垣の城が多いですね。見学に来ていた人たちも何組かいました。麓には飛騨の里というところがあって、ここで松倉城への行きかたを聞いて行ったのですがずいぶん遠回りをしてしまいました。飛騨の里から遊歩道があって歩いて登って行くこともできそうでしたがちょっと大変かもしれません。遊歩道に沿って?車道もありますので車で登っていくことができます。途中、車を止めるところもありますのでそこから歩いていくことができます。本丸からの景色は最高でした。

三木良頼、自綱によって、永禄年間(1558〜)から天正年間中頃(1573〜)にかけて築城された。三木良頼は永禄元(1558)年長子良綱(自綱)を将として、天神山城(後の高山城)の高山外記と畑佐城の山田紀伊守を討った。三木自綱は天正5(1577)年、中山城の岡本豊前守を討ち、白川郷を除く一円を支配し、桜洞を冬城に、松倉城を夏城とした。松倉城は山城ながら山上の本丸に矢倉、城門を置き、標高856.7m比高360mの松倉山上に巨石を使って、堅固な石垣を築き上げている。戦国末期の山城から一歩前進した雄大な縄張りをもつ城である。天正13(1585)年、金森長近、可重父子に攻められて落城し以後廃城となった。
(看板資料より)

史跡松倉城
応永年間、三木正頼は南飛竹原郷におこって益田郡を横領し、数世の後自綱にいたって高山盆地に侵入した。天正7(1579)年、松倉城はこの自綱により築かれたものである。天正10(1582)年八日町の一戦で強豪江馬輝盛を倒すと、鍋山城主三木顕綱、高堂城主広瀬宗域らを次々に倒して、飛騨全土を平定した。このころ自綱は、越中の佐々成政に通じて秀吉に従わなかったので、天正13(1585)年秀吉は家臣金森長近に命じてこれを撃たせた。自綱は高堂城に向かえ戦って破れ、秀綱は松倉城によって死守した。しかし勇将畑安高が(山蔵宗次に)討たれ、また藤瀬新蔵が裏切って金森に通じ、闇夜に火を放ったので城は落ち、三木氏はここに滅び、以降長く廃城となった。城は本丸、二の丸、三の丸の面影を残し、飛騨における有数の城跡である。昭和31年11月14日、県の指定史跡となった。
(看板資料より)

井戸跡

旗立台

 
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