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愛知県新城市

鳶ヶ巣山奇襲隊の松山越え

2012年05月04日

鳶ヶ巣山奇襲隊の松山越え
「よ」
吉川より豊田藤助先に立ち

天正3(1575)年、長篠の戦い設楽原決戦の前夜、信長の命を受けた酒井忠次は三千人の兵で豊川を渡り、この吉川から松山峠を越えて長篠城の背後迄迂回し、武田軍の拠る鳶ヶ巣山を攻撃した。この作戦は、織田・徳川連合軍大勝の起因となったといえる。
(看板資料より)

最初は、上記看板のある場所から徒歩で松山峠まで登ったのですが、途中で林道に出くわしたので、途中までは車で行かれるに違いないと思って下山後再び車で林道を走ってみました。

林道を進むと、上の写真のような案内が出てくるのでここからは徒歩で登ることになります。昨日の大雨で一部川になっていたところもありました。靴などはそれなりの装備が必要だと思います。

樋田で設楽貞通の別働隊と別れた鳶ヶ巣山奇襲隊は、塩沢村の才神を経て吉川村へと入って行った。ここからは村の郷士豊田藤助が先導役をつとめて、松山越えの山道にさしかかって行った。この山道は吉川村から市川村への通路ではあるが、険しい峠と谷との幾つかをつなぐ難路である。その上に雨のそぼ降る闇夜である。一行は前と後ろの連絡に注意して、足元に気を配り、濡れた武具や着衣の重みに耐えながら、黙々と歩み続けて行ったことであろう。
やがて松山観音堂に着くと、ここでひと息入れて、ひときわ険しい峠への道をたどった。峠からは市川村への本道からそれて、右手尾根伝いの間道を進んだ。程なく緩やかな傾きを持った大峰平の広場へ出た。ここから豊川左岸へかけての尾根の幾つかに、鳶ヶ巣、中山等の砦があって、戦略上の要地となっている。この大峰平において、大将酒井忠次はそれぞれの砦を攻略する手はずを決め、念のため奇襲に失敗した場合の行動をも指示した。かくて、全将士が兜の緒を締め直し、攻撃目標に向かって出発したのは午前5時頃と思われる。
(かるたでつづる設楽原古戦場より)

「歴史が語る松山峠に二代目の松を植樹する」と書かれていました。きっと枯れてしまっている老木の向かいにあった細い木が二代目なのでしょう。

二代目の松

松山峠を越えてそのまま鳶ヶ巣山の砦まで行きたかったのですが、麓には車を残してきているので残念ながら登ってきたルートを引き返したのでした。

 

 
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