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神奈川県愛川町

三増峠


2014年01月04日

三増峠は志田山塊の東端「下の峰」にかかる峠路で、三増峠越え、または三増通りの名がある。
中世の頃は、信濃(長野)・甲斐(山梨)から鎌倉に向う古街道であった。
永禄12(1569)年北条・武田両軍が戦った三増合戦のおり、武田方の小荷駄隊が通行したと言われている道で、信玄道の名を残している。
皇国地誌残稿に「松ヶ平ヨリ西北ヘ上ルコト五百六十七間三尺(約1キロメートル)ニシテ嶺上ニ達シ是ヨリ津久井郡根小屋村ニ連ナル険ニシテ近便ナリ」とある。
(看板資料より)


三増峠登り口

この峠は、三増合戦のおり武田勢が帰陣に用いたと伝えられるなど、愛甲と津久井、山梨方面とを結ぶ道筋の要衝であった。
(石碑記載文章より)

 



2003年05月24日

次に今回の目的地である三増峠に向かいました。上の写真は三増峠の下を通っているトンネルですが愛川町役場の前の道(信玄道)を北へ進むとここへ出ます。トンネルの手前の右側に三増峠に行く道の入口があります。最初は舗装された道路を登っていきますがそのうち下の写真のような道になります。
途中車が捨てられています。三増合戦場周辺はごみが投棄されたりしている場所が多く残念でした。

しばらく歩くと三増峠の案内が立っていました。入口から歩く距離も長くはなくすぐにたどり着けます。そこから下の写真にあるように最後の坂を登ると尾根伝いに走っている林道に出ることができました。林道の脇には志田峠にあったのと同じ種類の看板がありました。北条軍を蹴散らした信玄もここを通って甲斐に向かったのでしょう。

三増峠、志田峠ともに道は狭く、峠や尾根自体もそんなに広いところではありません。武田、北条合わせて数万の軍勢が戦った主戦場はやはり麓の三増合戦場碑があるあたりだったのかもしれません。

この合戦で戦死したと言われる浅利信種の墓や、首塚などを見つけることができませんでしたので、志田峠の北側も含めて次回の課題とさせていただきます。また三増峠に走っていた林道も結構整った道でしたので、城山町方面から車でもチャレンジしてみたいと思います。

 

 
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