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長野県富士見町

御射山社

2016年12月18日

ここに鎮座する御社山社は、建御名方命と国常立命を祭神としている。中世には、この社のある通称原山の一帯は神野と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事が行われていた。それは秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する「風祭り」の意義をもつものであった。
祭事は旧暦の7月26日から30日までの5日間にわたり、穂屋(ススキで囲った仮屋)を造営して大祝・神長官をはじめ多数の神官や武士などが参籠し、狩りを行って獲物を神に供え、豊作を祈願し、また流鏑馬などの武技競べも行われたと伝えられる。
これらの祭事は鎌倉時代以降、内容の変化や戦乱などによる一時的な中断はあったものの、数百年間にわたって継承された。明治以降には庶民の民族的信仰と結びついて幼児の健康祈願も行われるようになり、一般的に「原山様」とよばれ、昭和初期までは草競馬や露天商も加わっての賑やかな祭りであった。
けれど、こうした祭事の舞台となった広大な神域も、明治中期の下原山入会地の分割によって10ヘクタールほどに縮小され、更に太平洋戦争中の開墾と戦後の農地解放によって半減した。
御射山神戸村は古くからこの祭事の賦役奉仕を受け持たされていたので、神社とはとくに密接な関係にあり、集落から社までの参道には立派な松並木が続いていた。それも時世の推移につれて失われ、今では300メートルほどに残る老松が往時の様を伝えている。
(看板資料より)

 



2007年10月21日

ここに鎮座する御社山社は、建御名方命と国常立命を祭神としている。中世には、この社のある通称原山の一帯は神野と呼ばれる諏訪上社の社領で、上社の御射山御狩の祭事が行われていた。それは秋季の台風などが平穏に過ぎ、五穀が豊かに稔るように祈願する「風祭り」の意義をもつものであった。
祭事は旧暦の7月26日から30日までの5日間にわたり、穂屋(ススキで囲った仮屋)を造営して大祝・神長官をはじめ多数の神官や武士などが参籠し、狩りを行って獲物を神に供え、豊作を祈願し、また流鏑馬などの武技競べも行われたと伝えられる。
これらの祭事は鎌倉時代以降、内容の変化や戦乱などによる一時的な中断はあったものの、数百年間にわたって継承された。明治以降には庶民の民族的信仰と結びついて幼児の健康祈願も行われるようになり、一般的に「原山様」とよばれ、昭和初期までは草競馬や露天商も加わっての賑やかな祭りであった。
けれど、こうした祭事の舞台となった広大な神域も、明治中期の下原山入会地の分割によって10ヘクタールほどに縮小され、更に太平洋戦争中の開墾と戦後の農地解放によって半減した。
御射山神戸村は古くからこの祭事の賦役奉仕を受け持たされていたので、神社とはとくに密接な関係にあり、集落から社までの参道には立派な松並木が続いていた。それも時世の推移につれて失われ、今では300メートルほどに残る老松が往時の様を伝えている。
(看板資料より)

天文11(1542)年武田軍が諏訪を攻めた際に武田軍の本陣が置かれたといわれている所だそうで、今年の大河ドラマ「風林火山」でも武田の本陣御射山として出てきていたと思います。車を止めたところにちょうど案内板がありました。説明を読んでも特に武田の本陣跡のことについては書かれていませんでしたが、その説明版には赤い風林火山の旗と黄色い信州諏訪の旗が立っていたので武田の史跡に関連性のある証拠でしょう。少し寒かったのですが、上着も着ないですぐ近くで吠えている犬をよそ目に奥に進んでみました。あたりは鬱蒼とした森でしばらく歩くと鳥居があり、そこを越えると社殿があってその向かいには木漏れ日が差し込んだやや広い空間がありました。静かで神秘的な場所でした。

 
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