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静岡県磐田市

旧見付学校

2005年01月30日

「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治8(1875)年落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当初は4階建てでしたが、明治16年に増築されて今の5階建てとなりました。記録によると明治14年の見付学校の生徒数は男300名、女182名の482名で、就学率(学校にいった人の割合)は66%でした。
この建物は大正11年まで小学校として、その後は中学校、裁縫女学校、教員養成所、病院等として使用されました。現在は学校関係の資料等が展示されています。昭和44年、国指定史跡となっています。
(看板資料より)

見付学校を第12中学区内第1番小学校にと地元の熱意で、明治7年堂宮棟梁伊藤平右衛門の設計で着手、翌8年に開校しました。
基礎の石垣は遠州横須賀城の石垣を利用し、間口12間、奥行き5間の木造洋風2階建てに屋上2層の楼を完成させました。玄関はエンタシス様式の飾柱、分銅付き窓の日本最古の現存木造洋風校舎です。
明治16年に2階天井裏を改築し、現在の3階2層になりました。
(看板資料より)


伝 酒井之太鼓

児童の士気を高めた太鼓
見付学校が新築落成した年、家康の窮地を救ったといわれる「酒井之太鼓」が、見付学校に寄贈されました。明治7(1874)年浜松の祭りを見物していた見付の花屋吉三郎らが、板屋町の屋台で使っている太鼓が浜松城の警鼓であったことを知り、板屋町から買い受けました。太鼓は吉三郎らがどこに置くかと協議していたとき、ちょうど見付学校が建築中であったことから当寺の見付の戸長・古澤修らと交渉して、翌年開校を記念してこの学校に置くことになりました。
太鼓は最上階に据え付けられ、児童の登校の合図と正午の時報として、また児童の士気を高めるために毎日打ち鳴らされ、見付の人たちの生活の音として親しまれていました。
(看板資料より)

家康を窮地から救った太鼓
三方原の戦いに敗れた徳川家康は浜松城に逃げ帰りましたが、武田勢は城の周囲にまで迫っていました。このとき城中を守っていた酒井左衛門尉忠次はいちかばちかの作戦を思いつき、城門を開いて篝火を焚き、力いっぱいこの太鼓を打ち鳴らして威勢を示しました。追撃してきた武田勢は、勇壮に響きわたる太鼓の音に、徳川方に何か策略があるのだと感じ、城を離れていきました。このようにして家康は窮地を逃れ、浜松城は落城の危機から救われたと伝えられています。
(看板資料より)


l旧見付学校見学後、受付の方に声をかけたら快く中に招き入れてくれて親切に対応していただきました。磐田市内の武田に関する史跡について聞いてみましたが、一言坂の戦いの前に武田・徳川両軍が衝突したといわれている三ヶ野坂の場所も教えてもらうことができました。磐田市及び周辺には、元亀3年に武田軍が侵攻してきたときに関わる伝説は数多く残っているらしく、遠江全体では52話にもなるのだそうです。武田軍に敗れ、窮地に陥った徳川方を助けたのでその後江戸時代になって諸役を免除されたといった内容のものとか、武田軍が攻めて来たときにほとんどの寺社が焼かれてしまったので周辺には古い寺社は残っていないとか、とにかく武田軍は悪者として登場する話が多いとのことでした。磐田市に残る伝説をまとめた資料でこの時の武田軍侵攻に関する部分をコピーさせてもらいました。


浜松城
横須賀城

 

 
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