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長野県伊那市

溝口城

2006年12月30日

天文年間に保科弾正忠正辰の次男である溝口民部正慶が初めてここに住んだ。正慶は弘治2(1556)年に武田晴信が伊那に乱入した際に、信玄に従わなかったので捕えられて狐島で殺された。
(長野県の武田信玄伝説より)

八人塚・艮城から溝口地区に向いました。旧長谷村役場の近くで地元の人に溝口城の場所を聞いたら教えてくれました。その場所は中央構造線の溝口露頭がある中央構造線公園でした。念のためすぐ前のお宅で溝口城の場所を聞いてみたところ、溝口城には上ノ城と下ノ城の2つあって、この中央構造線公園は溝口城の下ノ城になるのだそうです。ついでに上ノ城についても聞いてみましたがそういう地名は残っているものの特に何も残っていないとのことでした。上ノ城は多分国道を挟んで反対側の長谷村役場の周辺になるのだと思います。
また、中央構造線公園の手前が少し窪んでいますがここが堀の跡といわれているそうです。
中央構造線公園は遊歩道で一周できるようになっており、奥の方に行ってみると歴史の塔や祠などがあり、石碑に書かれた文章によるとこの稲荷大明神は下ノ城築城当時の守護神として祀られていたものだそうです。しかし説明看板はどれも中央構造線のお話ばかりでした。
また左側から美和湖に下って行くと溝口露頭部を見ることもできます。きれいに土の色が違って見えました。


蓮台場
八人塚

 

 
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