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京都府京都市

妙心寺


正法山と号し、臨済宗妙心寺派の大本山である。深く禅に帰依された花園法皇が関山慧玄を開山とし離宮荻原殿を改めて寺とされたのが当寺の起りで室町初期に一時中断し再興後応仁の乱で再び焼失したが、乱後雪江宗深が再建、弟子にも名僧が出て寺運はさかんとなり、塔頭が相次いで建てられ、地方へも当寺の勢力は発展した。現在末寺3,500余、臨済宗各派中最大である。勅使門より北へ三問・仏殿・法堂・寝堂・大方丈が一直線に並び、その東側に浴室・浴室鐘楼・教蔵が並ぶ。室町後期から江戸初期の建築で、近世禅宗伽藍の最も完成した形を示している。大方丈の二面の庭園は清楚な名園である。法堂内に収蔵されている鐘は黄鐘調の鐘といわれ、698年の作、我国最古の在銘鐘で、形・音色にすぐれている。寺宝には当寺の歴史に関する多くの文化財を蔵する。また、塔頭は40余に達し、禅宗本山として堂々たる寺容を誇っている。
(看板資料より)


山門

仏殿


玉鳳院

玉鳳院

「甲陽軍鑑」によると、武田信玄の本葬の宗旨は臨済宗関山派で本山を妙心寺とする。東堂衆として恵林寺の快川和尚を筆頭として、信玄と関係の深かった領国内大寺の住職が10名あげられ、大導師を快川が務めたほか、各僧が葬式の役割を分担している。式場は道六間と広く、両方に虎落を結い、いなばきを敷いてその上に布を敷き、さらにその上に絹を敷いた。ますは勝頼をはじめとする親類衆が御龕に手をかけて供をし、位牌は信勝が持ち、侍大将衆・直参衆が各々御供し、また被官衆は虎落より外を御供したとある。
これらのように武田信玄の本葬が天正4年の4月16日に恵林寺で行われたことは明らかであり、戒名もこの時初めて「恵林寺殿機山玄公大居士」と諡され、分骨も高野山奥院ほか妙心寺へももたらされている。なお遺骨に関連しては、信州佐久郡岩村田の竜雲寺にも遺骨と称するものが伝わっているがこれについては色々と議論のあるところであり、にわかに分骨とは断定できない。
(柴辻俊六著 武田勝頼より抜粋)

勝頼父子の首が、飯田に梟されたことは、烈祖成績に「15日信長至飯田、梟勝頼父子首数日…」と見えている。その後、父子の首は京都に送られ信州小諸城で誅された武田典厩信豊の首と一緒にされ、六条の下御霊社前の獄門に梟し、京都の人々にこれを見物させたと見えている(信長公記、当台記、軍鑑等)。
武田信豊は信長公記によると、3月16日部下の下曽根信恒が叛し、殺されたが長谷川与次が使者となってその首を信長のもとまで届けたとある。
当時、京都花園の妙心寺には、恵林寺の快川国師に私淑して、ついにその嗣となった南化玄興が正親町天皇の勅命により妙心寺五八世として在住していた。妙心寺は多くの公家、大名たちが帰依していたけれども特に武田信玄が関山派(妙心寺を中心とする禅風)を尊崇し、妙心寺にあつい外護を加えてきた関係で、勝頼もまた父にならって外護をおこたらなかった。
従って、この派の明叔、快川、希庵、南化、鉄山など武田家からあつい殊寵を得ていた関係で、南化和尚は勝頼の首が梟されたことを聞くと、胸を痛め、京都所司代に抗議するとともにただちに信長に嘆願してこれをもらい受け、三人の首級を妙心寺にあつく迎え入れたのである。
この目を奪うような曝首の惨酷な仕置は、当時京都としても珍しく評判を呼んでいたが、それにしてもその信長がなぜ唯々諾々と妙心寺に首級を払い下げて本葬まで許可したのかというと、これには実は信長と南化の特別な関係があったからである。
南化玄興は美濃の人で、一柳氏の出であるが、姓は土岐氏。快川国師が恵林寺に住したとき伴われて甲斐に来た。元亀元(1570)年には妙心寺住持に納まったのであるが、天正4(1576)年には信長の臣、稲葉一鉄の招きに応じて、安八郡曽根村の華渓寺の開山にもなっている。この年の春、信長は安土城を築いたのであるが、天龍寺策彦和尚に請うて、安土山記を書いてもらおうとしたところ、策彦はこれを固辞し、かわって南化和尚を推挙した。そこで南化和尚は一代の傑作と称される「安土山の記」を華渓寺の方丈で草し、信長のあつい親任を受けるにいたった。
そんな関係から、信長は勝頼に対して遺恨ある仕打ちを強行しながらも、南化の懇請であるので、やむなくこれを許したというわけである。
こうして南化は、恩顧ある武田勝頼父子、信豊の首級をもらい受けると、一山の僧をあげて、厳粛な葬儀を執行し、三人の首級は開山堂に隣接している信玄の墓の左右に手あつく葬られたのである。
この葬儀の席に、甲府法泉寺の快岳宗悦和尚がたまたま居合わせて参会し、南化に請うて勝頼の歯髪の一部をもらい受けて帰り、同寺の境内に埋葬して永久に菩提を弔った。今甲府法泉寺の境内に武田信武の墓と並んで、武田勝頼の宝篋印塔があり、歯髪塚と呼ばれている。勝頼は生前、菩提寺というものを持たなかったので、この法泉寺が景徳院とは別に菩提寺となったのである。
(上野晴朗著 定本武田勝頼より抜粋)


織田信長・信忠の墓

 

 
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