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長野県大町市

仁科神社(森城・仁科城)

2016年10月06日

本丸

森城
森城は大町市平の森集落の北部にある。北に木崎湖、西に小熊山を控えた要害の地に位置している。古代からこの地方に勢力を張っていた信濃の名族仁科氏の北方の拠点であった。
築城年代は明らかではないが、森集落の南にある木崎集落の地名が「柵(城砦)の先」に由来すると考えられること、また木崎湖北岸に仁科氏の祖と考えられる古代氏族の阿部氏に関係があると思われる「あべっと」の地名があること、更にはこの城の位置が松本盆地の北端にあることなどから、森城の創始は古代にさかのぼるものと推測される。
平安時代後期に、仁科氏が大町市社の館之内に館を構えると、この森城は、北方に対する後詰の城として重要な意味をもつようになった。しかし、戦国時代に入って、約五百年間にわたる仁科氏塁代の森城は、甲斐武田氏の手に落ちた。
武田氏はこの森城を重視して、信玄の五子仁科盛信を配し、越後の上杉氏に備えるため、城を改修して北東に三日月堀を設けたという。また天正10(1582)年の武田氏滅亡後、旧領を回復した小笠原貞慶の同12年の書状に「森の要害」とあるように、上杉景勝に対する軍事上の拠点として重視し、兵を派遣している。
主郭は木崎湖に向けて岬状に突き出た台地上にあり、東西47m、南北65mの規模で、周囲に高さ1m余りの土塁をめぐらし、方形の郭が取り巻いている。
主郭の西の一段低い所に東西29m×南北83mの二の郭がある。これらの郭と北側は木崎湖に臨み、西に泥田堀と思われる湿田がある。南には木崎湖から流れ出た農具川の水を利用して幾つかの堀が設けられていた。家臣団の屋敷は主郭から南に向け、森の本村から地字外堀と呼ばれるあたりまで建っていたようである。
主郭の北の一段低い平地に安倍神社がある。祭神は平安時代後期の陸奥の豪族安倍貞任・同宗任で、代々仁科氏が崇敬してきたと伝えられるが、本来は大和朝廷に仕えて東征に従事した大和の古代氏族阿部氏を奉祀したもので、それが誤り伝えられたものといわれる。
(日本城郭体系より)

森城址
森城は鎌倉時代から戦国末期まで、約400年間北の守りを果す「後詰めの城」として仁科氏がこの地を支配するための重要な役割を果たしてきました。木崎湖に突き出た半島状の丘を利用して造られ、北と東は湖水に臨み、西と南は湖水の水を入れた堀に囲まれ、有事の際は湖尻の「せんば」をせき止めて水位を高め西側に水を入れるいわゆる水城の仕組みになっていました。
本丸跡には仁科盛遠の「もとどり塚」、童話作家巖谷一波や加藤犀水、柿本環翠の句碑があり、湖水から引き上げられた丸木舟等が保存されています。
(看板資料より)


仁科盛遠のもとどり塚

仁科盛政は信濃先方衆で森城主。八十騎。仁科氏は鎌倉以来の国人で、戦国期には安曇郡ほぼ一帯を支配する有力国衆。天文19(1550)年7月、武田氏が信濃筑摩郡の小笠原氏を攻略した直後、仁科道外が武田氏に出仕している。次いで同22年閏正月には仁科氏惣領の修理亮盛康が武田氏に出仕し、以降武田氏に従属していく。
盛康は弘治2(1556)年まで所見がみられる。盛政はその嫡子とみられ、同年にその嫡子としてみえる孫三郎がそれにあたるとみられる。
その後、永禄10(1567)年8月の「下郷起請文」にみられるが、これを最後に史料にはみられない。同11年に何らかの事情により没落したとみられ、同12年より仁科氏領は武田氏に直接支配されている。その後、信玄五男の盛信が養子となって名跡と仁科氏領を継承した。
(武田信玄大辞典より)

仁科道外(盛能)−盛康‐盛政という感じでしょうか?


阿部神社

仁科城跡の由来
この森城は仁科氏の拠城であり木崎湖の西岸に突出する半島状の丘を利用し湖水から流出する農具川をせき止めて浮島とした一種の水城で現在のB&G財団体育館の北に至る非常に広大な面積をもつ城である。戦国時代武田信玄が当主仁科盛政を甲州に呼んで切腹させ信玄の五男晴清を仁科五郎盛信と名乗らせて当城主として送り込み上杉謙信に対抗するため城の大修築を施した。戦国時代には珍しい程の大規模の城であり遠く日本海糸魚川近くまでを支配した拠点である。仁科氏は九百年ともいわれる長い間当地を支配した豪族であり平安朝の古くから京都の朝廷とのつながりをもちその力を背景として栄え又塩の道と言われる日本海との移送税の収入が財力となって小豪族ながら他の豪族にみられない中央文化を移入に仁科氏の古代文化を大町市や周辺に数多く残している。国宝1、重要文化財11、古い由緒を物語る天然記念物1、県無形文化財1、その他数多い文化遺産は仁科氏のかつての繁栄を物語るものであります。
阿部神社
仁科氏が祖先である阿部氏を祀ったところである。
下畑遺跡
縄文前期から弥生時代にいたる遺物を出土している。釣手土器の出土は珍品で郡内唯一の遺物。
かまたきば
城の炊事施設があった。
せんば
ここで農具川をせき止め水位の上昇をはかり堀への水を導入した。
機織り淵
森城落城のとき、城主の妻が機とともに投身したと伝えられる。雨振る夜、淵の底から機を織る音が聞こえるという。
千国街道
松本から糸魚川に至る。昔は大町地方へ塩など海産物の入ってくる道でもあった。
(看板資料より)

本丸の東側

森城の伝説1:阿部渡
ここより北の対岸JR海の口駅の近くに小さな祠がひっそりとある。承久の乱(1221年)の後、北条軍の手に落ちた森城を仁科盛遠家臣の阿部五郎丸貞高が奪い返し、一旦は城主となるものの、木曽義仲遺児義重軍に攻め込まれ落城してしまう。貞高はこの付近より湖底を潜り対岸へ落ち延びようとするが城内の鶏や犬が後を追ってしまい、泳ぎ着いた貞高は敵兵に捕らえられ討たれてしまう。
村人は阿部貞高の渡り着いた地を阿部渡(あべっと)と呼び、祠を建て手篤く霊を祀った。
その後、住民は鶏犬を飼わなくなったといわれ、森の鎮守の阿部神社は鳥を嫌い「鳥居」を建てることも止めたと伝えられている。
(看板資料より)

二の丸

森城の伝説2:機織り淵
ここより東南の農具川が流れ出ている付近に機織り淵と呼ばれるところがある。承久の乱(1221年)の後北条軍の手に落ちた森城を仁科盛遠家臣の阿部五郎丸貞高が奪い返し、一旦は城主となるものの木曽義仲遺児義重軍に攻め込まれ落城してしまう。城主阿部貞高は阿部の渡で討たれ、その妻は城を出て湖岸を逃げるものの追手に追い詰められ、愛用の機織り機を背負ったまま淵に身を投げてしまう。以降村人はこの淵を機織り淵と呼び、若い妻の死を悼み野の花を淵に投げ供養とした。貞高と妻の死んだ6月3日は二人の涙の雪が降ったといわれ、毎年この頃になると淵の底から機を織る音が聞こえると伝えられている。
(看板資料より)

三の丸

 



2007年03月11日

本日朝一番に訪れたのがこの仁科神社です。森城跡とのことで仁科氏の詰めの城といわれているとのことでした。出発前に地図で確認したときは木崎湖の近くというところまでチェックしてきました。カーナビで木崎湖まで来ましたが相変わらず雪が降っていてしかも風が強く、湖面の水は波打っていました。カーナビの縮尺を変えてみたら仁科神社が発見できたのでそこに向いました。雪はますます強くなってきました。仁科神社の入口に戦国時代仁科城跡附近見取図という大きな案内板があったので当時の様子が良く分かりました。今は地形が変わっていますが当時は木崎湖に囲まれた要害だったようです。また仁科神社は当時の本丸だったところのようでした。

仁科城跡の由来
この森城は仁科氏の拠城であり木崎湖の西岸に突出する半島状の丘を利用し湖水から流出する農具川をせき止めて浮島とした一種の水城で現在のB&G財団体育館の北に至る非常に広大な面積をもつ城である。戦国時代武田信玄が当主仁科盛政を甲州に呼んで切腹させ信玄の五男晴清を仁科五郎盛信と名乗らせて当城主として送り込み上杉謙信に対抗するため城の大修築を施した戦国時代には珍しい程の大規模の城であり遠く日本海糸魚川近くまでを支配した拠点である。仁科氏は九百年ともいわれる長い間当地を支配した豪族であり平安朝の古くから京都の朝廷とのつながりをもちその力を背景として栄え又塩の道と言われる日本海との移送税の収入が財力となって小豪族ながら他の豪族にみられない中央文化を移入に仁科氏の古代文化を大町市や周辺に数多く残している。国宝1、重要文化財11、古い由緒を物語る天然記念物1、県無形文化財1、その他数多い文化遺産は仁科氏のかつての繁栄を物語るものであります。
阿部神社
仁科氏が祖先である阿部氏を祀ったところである。
下畑遺跡
縄文前期から弥生時代にいたる遺物を出土している。釣手土器の出土は珍品で郡内唯一の遺物。
かまたきば
城の炊事施設があった。
せんば
ここで農具川をせき止め水位の上昇をはかり堀への水を導入した。
機織り淵
森城落城のとき、城主の妻が機とともに投身したと伝えられる。雨振る夜、淵の底から機を織る音が聞こえるという。
千国街道
松本から糸魚川に至る。昔は大町地方へ塩など海産物の入ってくる道でもあった。
(看板資料より)

仁科盛遠のもとどり塚

森城址
森城は鎌倉時代から戦国末期まで、約400年間北の守りを果す「後詰めの城」として仁科氏がこの地を支配するための重要な役割を果たしてきました。木崎湖に突き出た半島状の丘を利用して造られ、北と東は湖水に臨み、西と南は湖水の水を入れた堀に囲まれ、有事の際は湖尻の「せんば」をせき止めて水位を高め西側に水を入れるいわゆる水城の仕組みになっていました。
本丸跡には仁科盛遠の「もとどり塚」、童話作家巖谷一波や加藤犀水、柿本環翠の句碑があり、湖水から引き上げられた丸木舟等が保存されています。
(看板資料より)

本丸跡は現在の仁科神社になっていました。今は広場のようになっていますが当時としてはずいぶん大きな規模の本丸ですね。仁科神社の左側には仁科盛遠のもとどり塚がありました。そこから奥に進んで行くとまた別の建物がありましたが、さきほどの「付近見取図」によると、これは阿部神社とのことでした。そこから木崎湖の方にまわってみると、掘跡のような遺構もありました。大風のなか雪は降りつづけており猛吹雪でした。湖岸の遊歩道のようなところを歩いて再び仁科神社に戻ってきました。

三の丸跡

車を止めた近くの三の丸はすぐに分かりましたが、その他の二の丸や馬だしなどは発見することはできませんでした。


天正寺
仁科氏館之内居館跡

 

 
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