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山梨県北杜市

龍岸寺

2013年10月13日

本堂・庫裡落慶記念碑
徳雲山龍岸寺は応永7年武田信成の裔栗原武続入道常俊公が徳雲山竜岸寺を建立。曽て帰依の真言宗海秀法印を請じ開山となす大鏡法印代に殿堂焼失し右真言宗にて星霜を経ること12代更に永正元年清光寺二世南浦玄清和尚を請し改宗開山となし曹洞の宗風を挙揚す後寛永年中真田信尹公中興開基にて漸く諸堂全備す其より15代を経て20世祖孝和尚代安政6年正月再び諸堂焼失し同年庫裡を再建慶応2年本堂を再建中同年5月霖雨暴風に罹り倒潰後仮本堂を設く24世大雄和尚発願し昭和27年春本堂建立なる更に山僧伽藍等の本改修を発願檀信徒の浄財寄進をも得て茲に浄業全く成る感謝感激の至りに堪えず
(石碑記載文章より)


真田隠岐守信尹の墓

真田信尹(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の4男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守と称している。後、真田姓に復する。天正10(1582)年の武田氏滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。同年9月昌幸が家康に属したのは信尹の斡旋による。この後も昌幸と徳川との仲介役をつとめている。一時会津の蒲生氏郷に仕え後、徳川家へ帰参、旗本奉行となり、関ヶ原、大阪両陣に供奉し、その功績により千石加増され合計四千石となる。慶長19(1614)年甲斐巨摩郡の内に、采地を与えられ御使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時本堂の再建、諸堂を建築して龍岸寺中興開基となった。この故に真田家家紋の六文銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在その屋敷跡を残している。寛永9(1632)年5月、86歳で没、知行地でもあった龍岸寺に葬られた。この墓には、信尹夫妻以下3代が葬られている。
(看板資料より)

 



2006年12月03日

真田隠岐守信尹の墓があるお寺が長坂にあることは以前から知っていたのですがなかなか寄る機会がなく、今回やっと訪問することができました。真田隠岐守信尹とは、真田幸隆の四男であるといわれています。ちなみに長男は真田源太左衛門信綱、次男が真田昌輝、そして三男が真田昌幸です。長坂インターチェンジでおりて現地に向かってみましたが、場所が分からないため北杜市役所(旧長坂町役場)に向かいました。役場には日直の方がおられたので龍岸寺の場所を聞いてみましたが知らないようでした。但し、この付近でお寺といえば1ヶ所くらいしかないとのことでその場所を教えてもらいました。教えていただいたとおりに行ってみましたがそこは役場に行く前に寄った神社でした。周辺を走って龍岸寺を聞きまわりましたが、ちょうど場所を知っているご婦人がおられたのでなんとかたどり着くことができました。駐車場に車を止めて墓地の方向に歩いていってみると看板のようなものが見えたのでそのまま墓地の方に行きました。看板には「真田隠岐守信尹の墓」と書かれていましたが、その領域には複数の墓が立ち並んでいてどれが真田隠岐守信尹の墓なのかは分かりませんでした。お寺の人に聞いてみようと思い、お寺を訪ねてみたら住職の方らしき方が対応してくれました。話に寄れば真田隠岐守信尹の墓は特定できるものではなく該当の領域全体を指すとのことでした。真田隠岐守信尹に関するお話は特に聞くことはできませんでした。

真田隠岐守信尹の墓

真田信尹(信昌)は、真田幸隆(真田家初代)の4男、すなわち昌幸(上田城主幸村の父)の弟である。昌幸とともに若年より武田信玄に仕え、武田一族の加津家を継ぎ、加津野市右衛門、ついで同隠岐守と称している。後、真田姓に復する。天正10(1582)年の武田氏滅亡後は、いち早く徳川家康に仕えた。同年9月昌幸が家康に属したのは信尹の斡旋による。この後も昌幸と徳川との仲介役をつとめている。一時会津の蒲生氏郷に仕え後、徳川家へ帰参、旗本奉行となり、関ヶ原、大阪両陣に供奉し、その功績により千石加増され合計四千石となる。慶長19(1614)年甲斐巨摩郡の内に、采地を与えられ御使番となる。慶長年間、龍岸寺6世利山玄益和尚の時本堂の再建、諸堂を建築して龍岸寺中興開基となった。この故に真田家家紋の六文銭が寺紋となっている。当時大蔵村(須玉町大蔵)に居住し、現在その屋敷跡を残している。寛永9(1632)年5月、86歳で没、知行地でもあった龍岸寺に葬られた。この墓には、信尹夫妻以下3代が葬られている。
(看板資料より)


長谷寺
信綱寺
長国寺
真田源太左衛門尉信綱之碑 真田兵部丞昌輝之碑
真田庵(善名称院)

 

 
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