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長野県辰野町

龍ヶ崎城

2015年05月17日

本郭

龍ヶ崎城は、伊那谷の最北端、横川川と小横川にはさまれた尾根の先端に位置する。「守矢満実書留」寛正5(1464)年の条に「上伊那宮所龍ヶ崎之城」とある。これがこの城之文献上の初見である。この後文明19(1487)年に諏訪継宗が龍ヶ崎城を取り立てて知行した。更に天文14(1545)年に武田晴信(信玄)が箕輪の福与城を包囲している。これに対して筑摩郡林城主小笠原長時が龍ヶ崎城に立て籠もって戦ったので、背後の脅威を感じた晴信は5月21日に小山田信有らを派遣して龍ヶ崎城を攻撃させた。結局6月に至って武田方の板垣信方の攻撃で落城し、小笠原長時は林城に戻った。
この城は砦的な性格を有するが、伊那谷から善知鳥峠を越えて松本平へ抜ける交通の要衝にあり、戦略上重要な城であったといえよう。
(日本城郭大系より)

本郭

龍ヶ崎城
宮所は古くから伊那谷と松本方面を結び、諏訪への分岐でもある交通のようしょうであったことから、龍ヶ崎城は戦略上重要な位置にあり、幾多の戦いに巻き込まれている。
※文明19年頃は諏訪継宗が城を取り立てて支配下に置いた。
※天文14(1545)年4月武田信玄が箕輪の福与城を攻めた折には、深志(松本)の小笠原長時が龍ヶ崎城に出陣し武田に相対した。しかし、6月には板垣信方の攻撃により落城した。
龍ヶ崎城は主郭の他にもいくつもの堀と副郭を持つ山城である。主郭は周囲に土塁をめぐらせた城跡としての遺構を留めている。
(看板資料より)

龍ヶ崎城の主郭跡は標高865mの山頂にある。主郭の南北には空掘で隔てた副郭の他に幾つかの小郭を持つ山城の遺構を留めている。
主郭は南北22m、東西10mで中央が低く周囲に土塁が残る。ここの副郭の東側わずか下には腰曲輪もある。
築城年は明らかではないが、寛正5(1464)年より前と思われる。天文14(1545)年武田信玄が箕輪の福与城を攻めたとき、松本の小笠原長時が福与城の援軍として龍ヶ崎城に陣を張ったが武田勢の板垣信方によって滅ぼされた。
(看板資料より)

龍ヶ崎城と龍ヶ崎公園
穴倉山の尾根が南に湾曲して張り出した最南端が城山である。この形が龍の姿に見えることから龍ヶ崎の名が生まれたとされる。
城山は龍ヶ崎城であり、この麓の台地は城にかかわる館跡と考えられていて、今は龍ヶ崎公園と呼ばれている。
(看板資料より)

 
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