龍華院の略由緒
当山は吉国山龍華院と言い、一宮町中山廣厳院の末寺で、常法幢七ヶ寺の一つであり、本尊は華厳釈迦如来、左右は文殊菩薩、普賢菩薩である。寺記には、いにしえは真言宗、前附山大祥寺と言い、弘法大師が大同元(806)年に草創したと伝えられ、その後、衰微していたところ威韓和尚が、南北朝時代はじめの歴応(1338-41年)の頃、今の地に移して再興したが、再び衰えて廃壊していたのを、曽根の祥雲道慶が再建して、広厳院雲岬の法嗣桂節宗昌を請じて、開山第一祖とし、山寺号を更めて曹洞宗龍華院となれり、時に嘉吉元(1441)年である。桂節和尚は、妙亀譫語集によると「足下に、輝山、太虚、真翁、雪叟の四傑出で其の法、関外に昌に、其の派、東海に溢る。流れ分かれて、三百余員、一流の淵源と稱する所以なり。」桂節は、明応5(1496)年5月2日に示寂す。
天正10(1582)年3月3日、徳川家康当院に御宿陣せられ、山寺号をお聞きになり、入国当初の吉祥である。竜は雲を得て遍く国土を潤すものなりと申され、吉国山の山号を賜れり。この時、住持5世愚庵拝謁し、御朱印の禁制、寺領の御判物を賜る。
境内に播竜池、独鈷水、旧間門坂に梵字石あり。寺宝に小野道風の直筆般若心経一巻あり、伽藍全焼宝暦12(1762)年、本堂、書院は寛政4(1792)年23世大嶺周達の時再建せり。末寺現在35ヶ寺。甲斐百八霊場の第46番札所なり。
(看板資料より) |