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静岡県森町

七人塚

 
2013年12月31日

この塚は、今を去る四百有余年前、戦国の世に散った武将達の眠る供養の塚です。天正2(1574)年4月徳川家康は、自ら兵を率いて武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻めました。折節、一両日の大雨で気田川は増水し、城攻どころか、ついには兵糧がつき一戦も交えず撤退を余儀なくさせられたのでした。一方この状況をいち速く察知した天野軍は、直ぐ様反撃に転じ、田能・大久保の「峨々たる岩石の細道」、しかも雨後の悪路の中を三々五々撤退する徳川軍に、地の利を生かして襲いかかったのです。徳川軍は深い林や森の中から矢を射られ砲火をあびせられたのです。応戦しようものなら雲を霞と深い森や岩陰に姿を消してしまうのです。
徳川軍は一の瀬まで退く間に、多くの武将や兵士が討死したり負傷したりしました。古い資料によると、討死した武将は、鵜殿藤五郎、堀平八郎、堀小太郎、小原金内、大久保勘七郎、玉井善太郎等20余人と記されています。
土地の人々はこの将兵たちの亡骸を葬り、「七人塚」とよんで香華を手向け、盆には僧侶を招いて読経をするなど、四百年もの間、手厚く供養をしてきました。
夏の日、塚の前にたたずむと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の心ばえを思い、昔日の姿が目の前に彷彿として感慨一入であります。
(看板資料より)

 


 
2008年03月22日

戦国夢街道入口から遊歩道を登り始めましたが、しばらく登っていくと明らかに車でも走れる道路に出ました。やっぱり車で行くことができるにちがいないと思い、歩いていくことはやめて登ってきた道を降っていきました。そして戦国夢街道の地図に載っている七人塚を探しました。まだ朝早い時間だったのでなかなか地元の人に会うことができずにいましたが、ちょうど商店の裏の小高い所に小さな石碑を発見しました。七人塚と書かれているのがわかり登ってみました。商店の横にも七人塚の説明看板がありました。

この塚は、今を去る四百有余年前、戦国の世に散った武将達の眠る供養の塚です。天正2(1574)年4月徳川家康は、自ら兵を率いて武田方の天野氏の居城「犬居城」を攻めました。折節、一両日の大雨で気田川は増水し、城攻どころか、ついには兵糧がつき一戦も交えず撤退を余儀なくさせられたのでした。一方この状況をいち速く察知した天野軍は、直ぐ様反撃に転じ、田能・大久保の「峨々たる岩石の細道」、しかも雨後の悪路の中を三々五々撤退する徳川軍に、地の利を生かして襲いかかったのです。徳川軍は深い林や森の中から矢を射られ砲火をあびせられたのです。応戦しようものなら雲を霞と深い森や岩陰に姿を消してしまうのです。
徳川軍は一の瀬まで退く間に、多くの武将や兵士が討死したり負傷したりしました。古い資料によると、討死した武将は、鵜殿藤五郎、堀平八郎、堀小太郎、小原金内、大久保勘七郎、玉井善太郎等20余人と記されています。
土地の人々はこの将兵たちの亡骸を葬り、「七人塚」とよんで香華を手向け、盆には僧侶を招いて読経をするなど、四百年もの間、手厚く供養をしてきました。
夏の日、塚の前にたたずむと、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」の心ばえを思い、昔日の姿が目の前に彷彿として感慨一入であります。
(看板資料より)

 

 
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