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静岡県浜松市

宗源院

2015年02月07日

宗源院は維新の頃まで7万坪に及ぶ広大な寺域を擁していたが、明治政府に上地して縮小をみるに至った。開創は在天雲和尚。応永23(1416)年のことだといわれる。開基は吉良氏である。
くだって戦国時代、駿遠三の太守今川義元の庇護を受け、寺領の寄進を証拠だてる古文書が残されている。当時義元は七堂伽藍の寄進と共に寺領3百石を与え、普済寺の末寺とし華蔵義雲和尚を開山に、義元自ら開基となって再発足をとげるに至った。
同寺の所在するあたりは起伏に富んでいるので、戦略的にも城郭の代りとする構想であったらしい。住職は3万石の格式で待遇され、登城の際は駕籠に乗籠する特権を与えられていた。元亀3(1572)年の三方原合戦にあたっては兵火に遭い、更に江戸時代中期には講堂を失っている。明治に至って同40年に失火で全焼するなどあって、現本堂の再建は大正13年に漸く成った。
明治初年、太政官布告で、3石以下の小寺が廃寺となったが、それまでは23ヶ寺の末寺をもっていた。現在は、神宮寺、林泉寺、西見寺、篠原の如意寺、舞阪の養泉寺と、5ヶ寺を数えるのみである。同寺本尊は30cmほどの虚空蔵菩薩だが、これは家康の守護仏であったというたまたま同寺が無住状態にあったことを難じて30石を減じたうえ、側近の僧を留守居役に派遣、その際つけてやったのが同本尊であるとのことである。
(浜松の史跡より)


成瀬隼人藤蔵正義御墓所

宗源院には三方原合戦当時の徳川方の戦死者、成瀬藤蔵正義、外山小作、遠藤右近らの墓標がしつらえられているが、彼らは主君家康の身辺危うくなった時身代わりとなって自刃。武田方を欺いて救った忠節から、家康が一堂を献じ、堂宇をおいて供養させたといわれる。また浜松城主松平伊豆守信祝の代、三方原合戦当時陣中で死去の多世姫なる一族の娘の供養を行い塔を建てた。芳春院殿梅印智光大姉とあり、享保16年1月8日とも刻まれている。その約1ヶ月前即ち前年の12月6日には信祝の姫が亡くなりその墓は天神町北野山竜梅寺にあって、早世梅陰幻香禅童女之墓とあり、享保15年12月6日の文字が読み取れる。
想うに、信祝は愛娘の死から、数代前の薄幸の姫の怨霊を感じ、供養を発心したのではないかとみられる。戒名の照応と建立年月日の接近がそうした脈絡を想像させるのである。
(浜松の史跡より)


外山小作藤原正重御墓所


遠藤右近御墓所

 



2013年01月27日

山号を宝蔵山といい、曹洞宗、普済み寺13派の在天派に属する。在天弘雲が15世紀に開創した。本尊は虚空蔵菩薩・釈迦牟尼佛・普賢菩薩。
今川氏の庇護を受け、義元・氏真父子の判物が現存し、この古文書は浜松市の文化財に指定されている。
清閑な山内には三方原合戦の際、家康の身代わりとなって戦死した成瀬藤蔵正義、旗手として討死した外山小作正重の墓があり、また浜松城主松平伊豆守信祝が娘多世姫のために建てたという墓がある。寺の東南一帯に的場があり、徳川家康が在城当時ここで弓の稽古に励んだといわれる。
(看板資料より)

成瀬藤蔵正義の墓

外山小作正重の墓

 
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