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長野県茅野市

諏訪大社上社前宮

2014年05月18日

溝神社

祭神は高志奴奈河比賣命といわれ御射山へ出発する際にまず参詣された社であった。水眼の清流をたたえた「みそぎ池」の中にあり、西の方に「神の足跡石」があった。この社は武田支配時代には山浦の南大塩郷によって造営奉仕がされていた。
(看板史料より)


諏訪大社上社前宮神殿跡
ここは、諏訪大社大祝の始祖と伝えられる有員がはじめて大祝の職位について以来、同社大祝代々の居館であったところで、神殿は神体と同視された大祝常住の殿舎の尊称である。
この神殿のあった地域を神原といい、代々の大祝職位式および旧三月酉日の大御立座神事(酉の祭)をはじめ、上社の重要な神事のほとんどが、この神原で行われた。境内には内御玉殿・十間廊・御宝社・若御子社・鶏冠社・政所社・拍手社・溝上社・子安社等がある。
文明15(1483)年正月、大祝と諏訪惣領家の内訌による争いで一時聖地が穢れたことはあったが、清地にかえし大祝の居館として後世まで続いた。後、この居館は他へ移ったが、祭儀は引き続いて神原に於いて行われてきた。
諏訪大社上社の祭政一致時代の古体の跡を示している最も由緒ある史跡である。
(看板資料より)


十間廊

古くは「神原廊」と呼ばれ、中世まで諏訪祭政の行われた政庁の場で、すべての貢物はこの廊上で大祝の実見に供された。
毎年4月15日の「酉の祭」には鹿の頭七十五が供えられたが、これらの鹿の中には必ず耳の裂けた鹿が入っていることから諏訪の七不思議の一つに数えられた。
上段に大祝の座、次に家老、奉行、五官の座があり、下座に御頭郷役人などの座も定められ、左手の「高神子屋」で演ぜられる舞を見ながら宴をはった。
(看板資料より)


内御玉殿

諏訪明神の祖霊がやどるといわれる御神宝が安置されていた御殿である。「諏訪明神に神体なく大祝をもって神体となす」といわれたように諸神事にあたってこの内御玉殿の扉をひらかせ弥栄の鈴をもち眞澄の鏡をかけ馬具をたづさえて現れる大祝はまさに神格をそなえた現身の諏訪明神そのものであった。
現在の社殿は昭和7年改築されたものであるが以前の社殿は天正13年に造営された上社関係では最古の建造物であった。
(看板資料より)


神子屋跡

伝「天正の古絵図」には神子屋とあり寛政の前宮絵図には舞屋とみえ、一般には神楽屋と呼んでいた。前宮神事の舞楽はこの場所で行われたといわれ「年内神事次第旧記」にいう20番の舞曲は名高かった。
4月15日にとり行われる酉の祭りには五官祝以下祭に奉仕する村々の御頭役人を従え、大祝が前宮十間廊にのぞみ高座に着くと当日の供物である鹿の頭75首が供えられる。
この時神子屋にて舞人5名によって舞楽が奏せられ、神長官がまず祝詞を申す。現在も神事は存続しているが略式化され、神子屋は衰退し礎石を残すのみで舞楽は行われなくなった。
(看板資料より)


御室社

中世までは諏訪郡内の諸郷の奉仕によって半地下式の土室が造られ、現人神の大祝や神長官以下の神官が参籠し、蛇形の御体と称する大小のミシヤグジ神とともに「穴巣始」といって、冬ごもりをした遺跡地である。
旧暦12月22日に「御室入り」をして、翌年3月中旬寅日に御室が撤去されるまで、土室の中で神秘な祭祀が続行されたという。
諏訪信仰の中では特殊神事として重要視されていたが中世以降は惜しくも廃絶した。
(看板資料より)


小町屋の中小路

小町屋集落は前宮を中心として大まかに三本の道筋が通っている。その真ん中を上がって行く道を中小路と呼んで、戦前までは一般の人々の前宮本殿への参詣道路であった。
中世の古文書史料等から想定されるところではこの中小路の両側には、水眼の清流を挟んで、前宮神殿に居館を構えた現人神の上社大祝に直属する家臣たちの屋敷地が立ち並んでいたと思われる。
また精進潔斎し、穢れをとって前宮の、神事や祭礼に奉仕する人たちの精進小屋なども設けられたところで、景観は他大事に保存したい。
(看板資料より)


上社前宮本殿
前宮とは上社本宮に対して、それ以前にあった宮の意味とも考えられている。
前宮の祭神は、建御名方命と、その妃八坂刀売命と古くから信じられ、ここ前宮の奥に鎮まるところが墳墓と伝えられる。古来より立ち入ることが固く禁じられ侵すときは神罰があるといわれた。
四方には千数百年の歴史を有する御柱が7年毎に建てられ、現在の拝殿は昭和7年に伊勢神宮から下賜された材で造営されたものである。
(看板資料より)

スワ神は遠く上古の「古事記」「日本書紀」の中にみえるが、ここ前宮は古来より諏訪明神の住まう所として生き神となる諏方大祝の居館を存し神秘にして原始的なミシャグジ神を降して諏訪明神の重要な祭祀・神事を取り行った聖地である。
四方に千古の歴史をきざむ御柱を配し精進潔斎に浴した水眼の清流をひかえて鎮座する前宮本殿はその古姿を伝えながら昭和7年に改築された。
(看板資料より)

前宮一之御柱


名水「水眼」の清流

古くから「すいが」と呼ばれ、山中より湧出する清流は、前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔からご神水として大切にされた。中世においては、この川のほとりに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事をつとめるのに用いたと記録されている。
この水眼の源流はこれより約1kmほど登った山中にあるが、昭和5年に著名な地理学者・三沢勝衛先生によって、はじめて科学的調査がされ、その優れた水質は「諏訪史」第二巻に取りあげられている。
(看板資料より) 


旧上社大祝の居館・神殿跡

中世までは諏訪上社の祭政を統括し、諏訪明神たる現人神であった大祝の居館があり、「ごうどの」と呼ばれていた。
この神殿を中心に高神殿・中部屋・酒倉・馬屋などがあり、さらに内御玉殿・十間廊など、前宮にとって重要な建物があって神事の行われたところで、この一帯を神原(ごうばら)ともいった。
しかし文明15(1438)年の同族内論争いによって、この地の聖域が汚されたとして衰退していった。
(看板史料より)

 



2004年03月13日

上社前宮本殿

スワ神は遠く上古の「古事記」「日本書紀」の中にみえるが、ここ前宮は古来より諏訪明神の住まう所として生き神となる諏方大祝の居館を存し神秘にして原始的なミシャグジ神を降して諏訪明神の重要な祭祀・神事を取り行った聖地である。
四方に千古の歴史をきざむ御柱を配し精進潔斎に浴した水眼の清流をひかえて鎮座する前宮本殿はその古姿を伝えながら昭和7年に改築された。
(看板資料より)


名水「水眼」の清流

古くから「すいが」と呼ばれ、山中より湧出する清流は、前宮の神域を流れる御手洗川となり、昔からご神水として大切にされた。中世においては、この川のほとりに精進屋を設けて心身を清め、前宮の重要神事をつとめるのに用いたと記録されている。
この水眼の源流はこれより約1kmほど登った山中にあるが、昭和5年に著名な地理学者・三沢勝衛先生によって、はじめて科学的調査がされ、その優れた水質は「諏訪史」第二巻に取りあげられている。
(看板資料より)

諏訪大社上社本宮

 

 
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