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愛知県新城市

勝楽寺

2014年08月16日

本堂

当山は大本山に永平寺を仰ぐ六百余年の曹洞禅寺で、永平寺十四世勅賜直指円性禅師が幼少から御修行なされた名刹で、その因縁によって「出世観音様」をお祀している。
三世玄賀和尚は、名僧の誉高く家康の遠州への進出を助け、設楽原の戦いの後、戦没将兵の大施餓鬼を営み、この夜の火祭りが、竹広の「火踊り」として今なお続いている。又このとき信長・家康が立ち寄って「松楽寺」を戦勝に因んで「勝楽寺」と改めたといわれ、川路城主・設楽家の菩提寺でもある。毎朝のねんごろな読経の響きで心があらわれるようである。
(看板資料より)


「ねんごろにまつりたやさぬ勝楽寺」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

かるたでつづる設楽原古戦場によると、戦いが終わった5月22日に信長、家康が立ち寄り戦勝の祝杯をあげた。このとき、もともと松楽寺という名前だったのが勝楽寺に改められたとのことである。戦いの後、里に戻った村人達は荒れた田畑を整え、死者を手厚く弔ったが6月になると、死者を埋葬した信玄塚から蜂の大群が出て村人や旅人を悩ませた。相談を受けた玄賀和尚は武田方戦死者の亡霊を鎮めるべく大施餓鬼会を行い、夜は村人に命じて鎮魂の松明をたかせたところ蜂は鎮まったという。これが火おんどりの始めとのことである。

 



2006年05月05日


当山は大本山に永平寺を仰ぐ六百余年の曹洞禅寺で、永平寺十四世勅賜直指円性禅師が幼少から御修行なされた名刹で、その因縁によって「出世観音様」をお祀している。
三世玄賀和尚は、名僧の誉高く家康の遠州への進出を助け、設楽原の戦いの後、戦没将兵の大施餓鬼を営み、この夜の火祭りが、竹広の「火踊り」として今なお続いている。又このとき信長・家康が立ち寄って「松楽寺」を戦勝に因んで「勝楽寺」と改めたといわれ、川路城主・設楽家の菩提寺でもある。毎朝のねんごろな読経の響きで心があらわれるようである。
(看板資料より)


「ねんごろにまつりたやさぬ勝楽寺」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

国道側に案内板があったが倒れてしまっていました。なんとか読めましたのでメモしておいたのが上の文章です。反対側がお寺の正面で、その前には勝楽寺前激戦地などが広がっています。
かるたでつづる設楽原古戦場によると、戦いが終わった5月22日に信長、家康が立ち寄り戦勝の祝杯をあげた。このとき、もともと松楽寺という名前だったのが勝楽寺に改められたとのことである。戦いの後、里に戻った村人達は荒れた田畑を整え、死者を手厚く弔ったが6月になると、死者を埋葬した信玄塚から蜂の大群が出て村人や旅人を悩ませた。相談を受けた玄賀和尚は武田方戦死者の亡霊を鎮めるべく大施餓鬼会を行い、夜は村人に命じて鎮魂の松明をたかせたところ蜂は鎮まったという。これが火おんどりの始めとのことである。


勝楽寺前激戦地

 

 
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