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山梨県甲府市

逍遥禅院

2005年09月11日

武田逍遥軒信綱公之祠

本堂の左奥に入ってすぐのところに武田信廉の祠がありました。住職と思われる方の話によれば、武田信廉は武田家が滅んだ後の織田・徳川軍による武田の残党狩りで殺されたため、墓は存在しないとのことでした。


武田逍遥軒位牌 表

武田逍遥軒位牌
武田刑部少輔信廉、信虎公の三男、信綱は法名。北高大和尚信綱公に逍遥院殿海天綱公庵主と御法名を授ける。公自ら御位牌に彫刻、当院に安置す。
(逍遥禅院保管の説明文章より)

武田逍遥軒位牌 裏

お寺の方に武田逍遥軒位牌を見せてもらえるよう頼んでみたら、快く見せていただきました。武田信廉が自ら彫った位牌とのことでした。位牌の裏には天正7年と彫られており、既にその時期には武田家の行く末を案じて、自分の位牌を作ったのではないかとの話でした。また位牌は下の土台の部分と組み合わせてありましたが、別の作りのようであり多分後世土台の部分だけ作り変えたのではないかとの話でした。

 



2005年08月27日

甲府市指定 有形民俗文化財
武田逍遥軒位牌
武田逍遥軒信綱(信廉)が、生前につくっておいた自己の位牌である。「逍遥院殿海天綱公庵主・天正7己卯年吉辰」とあり、信州岩村田竜雲寺の北高全祝の書を信綱が自ら彫っている。これを自邸近くに牌所として建てた向富山逍遥院(曹洞宗)に納めた。当院には別に武田氏関係の古文書も保存されている。逍遥軒は武田信玄の実弟にあたり、一時信濃高遠城の城代などを努めたこともある。武田家滅亡の天正10(1582)年3月に織田軍に捕えられて相川河原で殺されたが、武将としてよりもむしろ画家として優れていたといわれている。その母を描いた大井夫人画像(長禅寺所蔵)、父信虎をうつした武田信虎画像(大泉寺所蔵)は肖像画として優れており、特に有名である。ともにその美術的価値を評価され国指定の文化財とされている。
(看板資料より)

ここには、逍遥軒武田信廉の位牌と、墓地といわれているものがあるらしいのですが、今回はその両方とも確認することはできませんでした。次回訪問時に是非確認したいと思います。

逍遥院文書
逍遥院には、天正2(1574)年の武田勝頼による「寺領安堵状」を始めとして、徳川四奉行の黒印状など、中世から近世初頭にかけての歴代領主の文書及び大久保長安、平岡勘三郎、岩波七郎左衛門などの代官衆の文書が合計9点保存されている。なかでも天正3年、武田勝頼による禁制は文書とともに高札が残されており、大変珍しく貴重な資料である。
(看板資料より)

 

 
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