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長野県長野市

昌禅寺


2008年12月29日

昌禅寺は長野市上松(湯谷)にある曹洞宗のお寺である。正式の寺号は瑞雲山和合林昌禅寺、「和合のお寺」と通称されている。
伝えによると昌禅寺はもと真言宗で順天山明徳院修善寺と号したという。戸隠、宝光社、西光寺末裔ともいう。戦国時代、上野(群馬県)最興寺の天倫正挺和尚が再興して開基となった。
天倫和尚は上野の豪族だったので、川中島の戦い時、武田信玄公がその臣小幡氏に縁の深い故に永禄年間4世領叟珠統和尚が兵糧米を送り、現在の寺地を与えたといわれる。依って「法性院殿機山信玄大居士」信玄公が開基となっている。
一説には天倫和尚の弟子日山全春和尚が開いたともいう。全春和尚は越後の人で、最興寺で修行し、越後へ帰ろうとすると、甲越両軍の合戦があって通ることができず、上松村に滞在した。村民は尊崇し庵を建てた。のち、古寺を再興し、功を師の天倫和尚に譲って開山としたともいわれている。
(昌禅寺パンフレットより)

村上左馬頭が順天山明徳院修善寺を建立したが、兵火のために伽藍が焼失した。その後天倫という者が箱清水に寺号移して再建した。明応2(1493)年に村民は天倫を押してこの寺に住まわせ、、中興の開祖とした。天倫は上野国最興寺開山一列正伊和尚の法弟で、はじめ最興寺に住し、後にこの寺に転じた。そして号を瑞雲山昌禅寺と改めた。間もなく再び兵火のために灰塵に帰したので本村十王堂に来てさらに越後に至り、乱を桑取谷逃れ、ここで頚城郡高住村の洞泉寺を創立した。その後弘治年中(1555〜1558)に4世の僧珠統なる者が本村に帰り所々を漂泊していた際、たまたま武田晴信が信濃国に出兵し、葛山城を襲撃した。あるいは本村の山麓に陣を置いたこともあった。開祖の天倫は小幡憲重の弟で、その一族は当寺武田氏の麾下に属していたので、珠統は行って晴信に会った。そして米や金を送って軍資金の補いにさせた。晴信は彼を愛し、たまたま寺が衰えていたのを惜しんで、和合林(今の寺地)に寺地を与え、先規にならって若干の地をあわせて寄進した。けれども累年の兵乱によって堂宇を修することができず、仮に庵室を設けて地附山の東に居住していた。永禄の末、社会がやや平穏になったので本地に帰り、寺や塔を建てた。
(長野県町村誌・長野県の武田信玄伝説より)

満願大菩薩

昌禅寺は大峰城の東側でした。正面から入って行くとなだらかに坂を登って行き、右側には六地蔵がありました。左側から登っていくと最初に左側に建物があって中に何かが入っているのが見えました。入口上には満願大菩薩と書かれていました。中に入ってみると大きなお地蔵様のようなものがあってその表情を見て思わずギョッとしてしまいました。
境内には雪が残っていましたが参拝に影響するほどではありませんでした。本堂に向って左側にある建物が印象的でした。ベルを鳴らしてみましたが誰も出てきませんでした。

 

 
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