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埼玉県皆野町

高松城

2013年01月04日

高松城は秩父盆地のおおむね北部に当たり、城峯山塊のほぼ南東に占地している。城の南麓を荒川の一支流である日野沢川が急崖を形成し、東は金沢川が南流し、その合流点より北東方500m、通称龍ヶ谷山と呼ばれる山の頂で、背後に山の神山が控える天然の要害である。
ここより北へ児玉街道沿いに進んで皆野町出牛峠を越え身馴川沿いに進めば児玉町の雉ヶ岡城、さらに本庄市の五十子城に通じている。この街道はいわゆる高松筋といわれるもので、甲斐武田勢の侵攻路の一つにあげられているものである。
『新編武蔵国風土記稿』下日野沢村高松城の項に「村の東にありて、登ること凡そ十町にして、山上平坦四十間方許、所々堀切り等今猶存せり、鉢形北条氏邦の臣、逸見若狭守の城墟なり、若狭守子孫野巻村に蟄居し、今野巻村の各主役を務む」とある。
逸見若狭守は、「鉢形北条家臣分限録」によると、秩父郡野巻村と本国の甲斐八幡で千五百貫(異説七百五十貫)を領し、侍大将の地位にあったことが知られる。武田と逸見両氏の確執以来秩父に来て高松城を本拠とした。小田原の後北条氏が関東を席巻するに及びその配下に入り、鉢形城の北条氏に所属して、秩父郡小柱村、野巻村、深沢村、榛沢郡飯塚村、末野村、男衾郡藤田村の六ヶ村を宰領し、北条氏邦の侍大将を勤めたことが知られている。
鉢形城内の三の丸に館を有し、家老の黒沢・大野・加藤駿河および本郷越前らと軒を並べ、しかもその館付近は逸見郭と呼ばれていた。
鉢形落城後、逸見若狭守は男衾郡白岩村八幡神社に一時落ち着き、跡を孫の与八郎義貞に譲り、自らは野巻村に隠遁し、子孫は代々里正を勤めた。
(日本城郭大系より)

 

 
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